無次元数

面白い問題を見つけて。
以下はわかりやすくアレンジしています。

【小学生の割り算】

7/3を、1/2ずつに分けたい。このときあまりはどれだけになるか

(し き)  7/3 ÷ 1/2 = 4 + 2/3

(こたえ)  2/3 あまる

この間違いを指摘しなさい

解答として示されたのが、『(こたえ)の2/3が誤りで、なぜなら、2/3 × 1/2 = 1/3 より、あまりは、1/3 となるからです』

私は違和感を覚えます。(しき)です。

(し き) 7/3 ÷ 1/2 = 4 、、、1/3

(こたえ) 1/3 あまる

と書きたいところですが、実はこれも、誤りであるとされているようです。
(ここでは、余りを指示する「、、、」が(しき)に含まれてよいか、は無視します。許されないなら、2式に分けます)
なぜなら、算数は「記号操作の習熟」と「概念理解の習得」の両建てだからです。
それを、具体的に実感できる、具象物を以て理解する、ことが規則です。
すなわち、かずの理解において、「1/2」で「割る」ことが、具体的に何を想定しているのかが、まるで見えてきません。
当たり前です。それは、「割り算は掛け算の逆算」であることと(ガウスの)「N=PQ+R」を援用して(☞発展)、(いくら単位を付与したとはいえ、そのような操作をしても実際上問題がない程度に便宜的な話で※)形式的(抽象的)に解いているに過ぎないからです。それは、上記の定義上、算数教育の範疇になく、そもそも問題として提出されるべきではないのではないか、と思います。

※あくまで"仮に"単位を付与すると、

7/3[m] ÷ 1/2[m/本] = (4 + 2/3)[本]

1/2[m/本] × 2/3[本] = 1/3[m]

小学生が算数の問題を考える上での解決になるだろうか?

問題文に指示がないので、『2/3本あまった』『1/3mあまった』(☟考察)のどちらが正しいと明言できるのだろうか、と思わないでもないし、無次元数ならば単位は同じでなければおかしい。
私が「正しい」と感じる回例案(第1案)と指導案(第2案)は、以下の通りです。

【第1案】
問題文を『7/3メートルの紐を、1本1/2メートルの長さに切り分けたい。このときあまりは何メートルになるか』としたうえで
(し き)200 100/3 ÷ 50 = 4、、、100/3
(こたえ)あまりは 1/3[m]
(考え方)7/3=2 1/3より、1mは100cmなので。
     100/3は50より小なので(100/3<50)、50で割れずにあまる。
     1/3[m]に100を掛けると100/3[cm]なので、反対に、100/3[cm]を100 
     で割って1/3[m]

【第2案】
物語風に。ひとつひとつの手順に分けて、逐次考えさせる。
親分が子分を集めて大きな袋から金貨を取り出しては子分に分けました。
兄貴分が弟分とやってきて、大きな袋の 1/3 の大きさの「小袋」に詰めて7つの「小袋」持って帰ろうとしたところ、弟分がいいました。「大きな袋の 1/2 の大きさの『中袋』があるから、それに入れ替えよう」。さて、どれだけあまりますか。
袋の大きさごとに金貨の入る量は等しいとします。
(し き)3×2-4=1
(こたえ)大きな袋ひとつの、1/3
(考え方)大きな袋1つのとき、小袋ならば3つ、中袋ならば2つ
         2つ         6つ、     4つ
     小袋は7つあったので、そのうち6つを中袋4つに入れ替えられる
     小袋1つは、大きな袋の1/3の大きさで入る量も1/3     


(考察)

上の2案はいずれも×(バツ)をもらうと思うけれど、それはこの問題にそもそも無理があるから形式的誤謬乃至カテゴリーミスなんだよ。
大事なのは、それに気づくことだろうと思う。それが「算数をわかっている」ということで、算数をわからずして、どうやって算数の問題に答えるのかってことを思う。
『意外に大人でも間違る』のではないかと思う。

なんでここまで言うかというと、俺も小学生のころ、聞かれたことがあるんだよ。
ちなみに、私は「『2/3"本"あまる』でも間違いではない、、、、、、、のじゃないの?」と言ったのです。
で、『違う』と云われて、腹が立ったというだけなんだけれどね。
違わないでしょうよ。
つまり、形式的には、1[本]=1/2[m]が成り立つとき、2/3[本]=1/3[m]が常に成り立つのであるから、それはレトリカルな問題に過ぎない、と言外に指摘したのである。そうでなければ、[本]と[m]の間には、或る条件として「順序」が付与されていなければならない。なるほど、「÷(割る)」は、四則演算において例外的に、順序を持つ。「割られる数」を主題として、それにレトリカル(言語規則的)に答えなければならない。このとき、割り算と掛け算が実は機能的に等しいとき、同じように考えないわけにはゆくだろうか、という問いを、反対から述べたのである。「2/3本あまるわけがない」は事実命題である。しかし、形式的に答えるとき、事実から中立であるはずである。ここで謂っているのは、意味論或いは言語行為論と形式論の違いである。単位が量だけではなくそれに特有の構成原理を表現しているとしても(したがって、表面的な形式操作が誤る場合がある。)、それは内在的な規範であって、言語行為論による外在的な規範が表現されているわけではない。「余っ『た』」のは所詮結果論であるから、その行為がそこに到達しないがゆえに「『余る』ことがない」ことを以て、結果として生成される「本」を当てることができないと結論付けられる類のことではない。それは会話であって、計算ではない。計算上は(所与のこととして、すなわち、当然のこととして)「2/3[本]=1/3[m]」は(「当然」であるので)"言うまでもない"のではないか、ならば、言わないことを以て「不正解」とは言えないのではないか。と小学生の私は問うたのである。屁理屈ではない。
さらに言えば、言語行為的には、『4本できる』ことが文意上求めらているはずでー問題文の構成上、その目的としてー、余りは、余技である。その余技にあらためて別の意味を付与するのであれば、前もって問題に言明されていなければならない。でなければ、そこに意味上の錯綜が起きている)、と意味論乃至言語行為論/行為論/表現論の是非を問うたのである。

ここで大事なのは、一緒くたにして考えずに、逐次的に考えることで、その訓練。
算数教育は発達に従事して、それを超えるものではないのです

(発展)

 たまたま四色問題の関係で、ガウス記号の発端を探して
『第Ⅲ証明』に「PQ+R」とガウス記号が出てくる

平方剰余の相互法則―ガウスの全証明

平方剰余の相互法則―ガウスの全証明

 

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