シンどろろ ④

手塚治虫作品をニヒリズムから評論乃至分析した文章がないか探したら、専門的訓練を受けた研究者によるものではないが、興味深いものを見つけた。

ただ、あまりに主張が強いので、紹介はしない。しかし、前回採り上げた三島などとも関係していて、あくまで私の意訳を込めて、『どろろ』を読む上での今後の検討点として挙げてみたい(私は研究者ではないので「研究」の水準では何もできない。ファンであるから、気になった点を掘り進めて、興味を深めるだけである—そのスタンスで「聖地巡礼」となればよい。要は、気晴らしであるが)。

  1. ブラックジャック』や『MW(ムウ)』は同性愛を扱っている。
  2. 手塚治虫共産主義者である。
  3. 手塚治虫はニヒリストである。
  4. 手塚治虫アナーキストである。
  5. 手塚治虫は新即物的な生命力の信奉者(生命主義者)である。

    新即物主義 - Wikipediaマジックリアリズム - Wikipedia
    新興写真 - Wikipedia
    芦屋カメラクラブ - Wikipedia

  6. 手塚治虫のテーマにエロスがある。
  7. 三島由紀夫上杉慎吉と同じ観念論者である(が上杉慎吉と違って、観念主義者である※)。
    ※上杉にとって「人間天皇」は実は自明であり、したがって、三島の言った「ダメな天皇」という問題は認識上は起こらなかった(『吉野作造上杉慎吉—日独戦争から大正デモクラシーへ—』)。三島にとって「ダメな天皇」は居たらおかしいのであるが、上杉にとって「ダメな天皇」が居ることは認識上は当然なのであった(実際の評価はしていない。家族を諭したあくまで内輪の話が残っている)。
  8. ニヒリズムの克服が「ブッタ」や「火の鳥」のテーマである。
  9. 火の鳥』は華厳経唯識論を基礎に描かれている。華厳経では「一にして多」で言い表される。 
  10. 三島由紀夫は仏教にある無我を批判した。

    唯識 - Wikipedia
    唯心論 - Wikipedia

2,3,4は採り上げる必要もないように思えるが、ただそういった主張をする人は何かしら根拠をもっているかもしれないし、可能性を排除しない程度の備忘のために挙げておいた。

7も特に関係はないように思えるが、9に関係して『豊饒の海』のテーマと重なる一方で、10に関係して実は唯心と、すなわち西洋思想と、どれだけ区別がついていたのかが焦点化されて興味深いので挙げておいた。

三島由紀夫 - Wikipedia

要は、三島由紀夫は留学していないために無学だった可能性が捨てきれないのであるが、このときそれは、

上杉慎吉 - Wikipedia

上杉がかつて経験したことで在り、(留学したとはいえ)美濃部達吉と違った点である。上杉は大陸の革命思想を或る程度「純粋」に持ち込んだと言える。美濃部はその点折衷的であり、在野思想的であり、(士族出身の上杉とは異なる)平民出身としての主張のポジションを持っていた。だから、上杉との論争ばかりが注目されるが、立との国際法の論争とセットで考えないと分からない点もある(上杉との論争であるがゆえに焦点化されることもある。上杉の方は、吉野との論争も併せて考えた方がよい)。

感心したのは、手塚治虫がディズニーの影響は当然として、映画手法を取り入れたことは有名である(一方で、それが大正から昭和にかけての文学界を席巻して、表現技法として文学者が先行していたことはあまり触れられない)が、ヨーロッパにおいて新思潮のもと発展した写真技術の影響を受けていた可能性にまで触れられたことである(もとの主張では触れられていない。私が意訳した)。
いやこの程度のことは古参のファンの間でとっくに知られたことかもしれないが、俄かファンなので良く知らないのである。
「芦屋カメラクラブ」となると関西であるし、宝塚の影響と並べると興味深い。

要は、手塚の軸足は、当然のことながら、戦前にあると思うのであるし、思想云々ついては、自己の信条というより、思想が手法を生み出してきたとき、エンターティナーとして、表現手法が重要だったのではないかと思う。
さて、そういった点に注意しながら、私も『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』を読んでみたいと思う。


星     新一    1926年〈大正15年〉09月06日 - 1997年〈平成09年〉12月30日
手塚 治虫    1928年〈昭和03年〉11月03日 - 1989年〈平成01年〉02月09日

手塚は星の2歳下らしい(生前は、1926年生まれを自称していたらしい)。

プロの漫画家になる前の敗戦の年である1945年に手塚は、焼け残った大阪の松竹座において海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという[61]

61 手塚治虫『ぼくはマンガ家』毎日新聞社、1999年2月25日, pp. 33–34.

手塚治虫 - Wikipedia

これがwikipediaの掲載元(ISBN-13 978-4820543466)。だから、正しくは『僕はマンガ家』。なぜかこのバージョンだけ「僕」となっている。

☟は1979年

☟は1988年

☟は2016年

☟は2009年

附録が違うだけなのか、内容にも違いがあるのか。

極論を言えば「ブラックジャック/ふたりの黒い医者」だけでよいw

-ioi-
★★★☆☆極めつき?
2009年12月3日に日本でレビュー済み

とあった。その話は読んだことが在る。

information-station.xyz

これなどは、志賀直哉の『城の先にて』で、やはり戦前の影響を感じるし、文学の影響を直接受けていたことを示唆するのではなかろうか。

杉戸町ホームページ

中学生の教材に使われたようで、講義ノートである。
よい点は、話の発端に「①二人の黒い医者が、偶然道端で出会った場面」を適切に置いて説明に使っている点だ。「黒い」(価値評価)「偶然」(構造)「道端」(意味)が網羅されている。「黒い」「偶然」は言うまでもないが、「道端」は(『城の先にて』の)「石」に通じる。国語の先生だろうか?

対比されるのは、

yosemi-7.com

これで、主人公は「近代文学の白眉」となる前に、

兵庫県/円山応挙が障壁画に込めた思いを感じてください

大乗寺の応挙に「触れた」のか。なるほど。

どろろ』には仏教の歴史が絡んでいると思うが、『二人の黒い医師』でも、ラストが『暗夜行路』と対比されるのではないか。

気になるのは、『二人の黒い医師』の掲載日なのだが、よくわからない。
といいうのは、

toyokeizai.net

こういうことがあって、『ブラック・ジャック』は手塚治虫による劇画ということであるが、

劇画 - Wikipedia

というよりむしろ、

無頼派 - Wikipedia

なんじゃないのかと思うのである。世代的にも手塚の下で、戦前生まれではあるが、戦後に中学校に入学するかしないかの人たちによる活動だったように思う。
無頼派は明治生まれの人たちが中心だったから、手塚の方こそ、下の世代である。
そもそもなぜこんな不思議な感慨にとらわれるかというと、「劇画」「駒画」「説画」でもいいが、絵画的観点に思えるのだが、手塚は映画表現を取り入れて来たわけだが、映画に「劇画」で問題視されるような省略は起きないからである(映画における省略はまた別問題である)。
背景画を省略しなければ「劇画」なのか。方法論的に明確な区別があるのかもしれないが、よくわからない。

ブラック・ジャック』の3年前(1970年『週刊少年サンデー』)に始まった『銭ゲバ』は劇画なのだろうか?駒を書き込むのが「劇画」の主旨だったか、フィクションであるがファンタジー性の排除だったのか、よくわからない。

『喜劇新思想体系』は1972年で『ブラック・ジャック』の前年である。

別の話には

booklive.jp

こういうのもある。