シンどろろ ⑫

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『斜陽』の「革命」と関係あるか

茶色のはげた中折帽の下から、髯ひげだらけな野武士が名残なごり惜気おしげに首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合みあわせた。鉄車てっしゃはごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然ぼうぜんとして、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐あわれ」が一面に浮いている。 「それだ! それだ! それが出れば画えになりますよ」と余は那美さんの肩を叩たたきながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟とっさの際に成就じょうじゅしたのである。

夏目漱石 草枕

『斜陽日記』に(『斜陽』にある)「革命」は出てくるだろうか。

支那」は出てくる。「支那風の別荘」で「支那間」の中での話である。

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蝮は緑色ではない。つまり、三島のうわごとにあった「緑色の蛇」とは何か。

その緑の蛇の正体は?

ウロボロス - Wikipedia

むしろ縁起が良い。

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そんな日は、私は2階へ上がって、ベットに潜り込んで本を読んでいた。フランス革命を題材にした小説、それから第一次世界戦争の歴史などを読みふけった。そして、言い知れぬ暗闇い閉ざされた。ウェルスの「世界文化史体系」の第五巻等を読んでいると、さまざまに悲しかった。

P.59,『斜陽日記』

ウェルズ世界文化史 第5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

革命の話である。戦時下の空襲におびえながら、革命に関する本を読んで悲しがる。

蝮ではない蛇の卵は食べて後悔する(pp.)。空襲におびえながらも、餅を食べる姿に極楽浄土に幸福を見、伊勢神宮への投弾に嘆く(PP.78-79)。

やがて敗戦を迎えて

「もう天皇陛下の価値はなくなる。」
「そうだ、うんとなくなる。」
「だけど、おかざりものには変わりはなかんべ。」
「これから、もう、一生、砂糖も北海道の蛙も食べられないわ。」

お母様は夕食のとき、

P126

との近所の話題に、「「そう、おもしろい人達ね」と、淋しそうに、お笑いになった」。

太田静子は教養豊かな人で、空襲と馬鈴薯とぐみの日常の隙間を、「支那のヴェランダ」から星を眺めたり、世界の知識で埋めるのだが、一方、太宰は教養の点で太田に劣ったそうだ。何しろ、フランス文学を専攻して居ながら、フランス文学が原文で読めなかったというのは、本当だろうか?

太宰治 - Wikipedia

しかし、夏目漱石を読んでいたはずである。弟子の鈴木三重吉に を勧めては、夏目漱石はまだ革命に意欲を示していた。

『斜陽』は旧華族を描いたと言われるが、本当だろうか?

宮城県武家出身ながら3歳から東京の志賀直哉は疑問を呈した。
青森県の地主の子は「左翼活動に挫折」して自殺を図るようになり、大学から東京に出た。

三島は志賀を評価したが、太宰はどうだったか。

太田静子 - Wikipedia

太田は明治の教養人の典型のひとつである、医師の家系だったのである。九州の大名に仕えた武士(に準じる)身分だったようである。上杉慎吉に近いだろうか。

華族に近かった志賀と、同じ武家でもそうではなかった太田と、武家でなかった太宰と、三者三様であるが、三島は志賀に近かっただろうか。

志賀直哉 - Wikipedia

三島由紀夫 - Wikipedia

華族の言葉遣いではない」にもただそうであるとばかりと言っていられないようである。

森鴎外はどうだったか。

森鷗外 - Wikipedia

前田案山子 - Wikipedia

夏目漱石 - Wikipedia

誰もが革命を志したが、革命を論じられたのは上杉だけだったように思える。
すなわち、例えば、「男女平等」なら、みな「「男女平等」だったらよいなぁ」くらいは言えたし、活動もしていたのだが、「「男女平等」とはこういうことである」と理論上明言できたのはただ一人だったと思う。みな大陸思想に憧れを抱いてはいたが、大陸思想を原理から理解できていなかったからである。それが法だからであった。

別の言い方をすると、上杉は「社会観」を持っており、文学者たちは「社会像」を持っていた。それが「視線の文学」とも呼べる、夏目、太宰、石原へと受け継がれたものであるようだ。そこに出自の影響もほのかに感じられるが、気のせいだろうか?

もちろん、日本全国、武士でなければ教養も気骨もなかったなんてことは、ない。

それが反対に、戦後、三島の限界となった。
三島は石原の「価値紊乱」を「道徳紊乱」としか理解できなかったのだ。
つまり、私たちが一般に『斜陽』に対して抱いているイメージは三島へのものであって、太宰の『斜陽』はひょっしたら江戸から続く明治・大正から戦前の或る種の多様さを反映した別のものだったとしか思えないのだ。