シンどろろ ⑰

 

ベルクソンの哲学は、当時の若い世代や学会まで広く受け入れられ、ベルクソンブームが巻き起こりました。夏目漱石西田幾多郎小林秀雄など、日本の文学者や哲学者、思想家も愛読し、影響を受けました。

「ベルクソン」とその思想とは?著書『時間と自由』や名言も紹介 | TRANS.Biz

 

有が内在であるのに対し、無は超越である。無を排除し、有を全うしている必然性は、超越から離反している内在である。

P.5,九鬼周造における内在と超越,板垣 哲夫

これは「真空論」であり、有から無を生み出す神の話ような気がする。
特に、時間論との関係でベルクソンと響きあう。

そこでは、彼のアリストテレス解釈の賭け金がこれ以上ない形ではっきりと明示されている。「にもかかわらずきわめて明らかなことは、アリストテレスの思想はカント的ではない、いやそれどころか、我々はここでカントからきわめて離れたところにすらいる、ということです。ではどこに差異が存するのでしょうか?ある近代人、とりわけカントが我々に、純粋に心理学的な意味であれ、あるいは批判哲学的な意味であれ、時間は人間精神に相関的であると言うとき、それによって我々が理解するのは、時間が偶有的だということです。(…)アリストテレスにとって、それはありえないことです。時間はしたがって必然的なものなのです」(p.161-162)

P.126,(PDF) ベルクソンからハイデガーへ――リズムと場所(内在的感性論と内在的論理学)(2017年10月) | Hisashi Fujita 藤田尚志 - Academia.edu

これは「可能性」である。すなわち、「雨が降る可能性がある」とはアリストテレスにとって、将来において最低でも1日雨が降る必要がある

 

何が言いたいかというと、「超越」とは一体なんなのか、ということであり、それがべルグソンからハイデガーへ、九鬼周造から岸田國士へ繋げたものがあるとしたら、現象学心理主義なのか、ということである。

P.102,日本教育学原義,渡部政盛,昭13 - 国立国会図書館デジタルコレクション


弥勒菩薩は次の仏陀が予言されている。菩薩は如来になるため修行中の尊格。如来は修行を終えた尊格ということらしい。

どろろ』では不動明王の比喩である百鬼丸と菩薩の比喩であるどろろとの話が、修験道から鎌倉仏教の浄土真宗禅宗の分岐までの歴史を踏まえながら、「妖怪漫画」として描かれているようだ。一向一揆がプロレタリアであることを伺わせるのは、手塚に先立つ白土三平の漫画の影響だろうが、どろろの背中の地図など伏線をちりばめつつ、こちらはすぐにやめて『ブッダ』を長続きさせた。

どろろ』は、『火の鳥黎明編』で試行した物語性を引き継ぎ、『忍者武芸帳』にヒントを得てから『ブッダ』へと向かう間の作品のようだ。

忍者武芸帳 影丸伝』(にんじゃぶげいちょう かげまるでん)は、永禄年間から本能寺の変後の天正年間に至る間の、大名・武家や僧侶といった支配者層と農民・地侍たち被支配者層との間に起きる土一揆一向一揆、大名同士による戦争・調略、暗躍する忍者など、壮大な歴史群像を描いた劇画である。

忍者武芸帳 - Wikipedia

群像劇であって、ここで階級対立は演出に過ぎない。

大河ドラマになっているらしい。
手塚治虫はキャラクターを活き活きと動かすのは得意であるが、世界観を描くのは苦手なのかもしれない。一向一揆をプロレタリアで描くのは相当無理があったのだが(『忍者武芸帳』も群像劇である。)、仏教の世界観と当時の社会観を物語上照らし合わせることが難しかったのではないかと思う。「像」と「観」の違いである。

メッセージ・フロム・ブッダ - 「ブッダ」救われる言葉

「生命」がテーマである。

思った以上に不思議な漫画で、手塚治虫はよほど泥棒に何か意義を見だしているのか、最初は奴隷身分(スードラ)のから布を盗む乞食(バリア)村の8歳のリーダーであるタッタのエピソードから始まる。これがどろろだろう。布を盗んだ相手のチャプラを「兄貴」と呼ぶ。

 タッタは、シッダールダ以前に悟りを開いたゴシャラが悟りを拓くきっかけとなった自ら命を差し出すことによってゴシャラの命を救ったウサギによる喜捨の意味、すなわち、「この世界の大いなる因果の摂理」の謎を解き示す神として探し求められた方角に居る、シッダールタ以前に「世界の王になる能力」である 対等な生命 、、、、、 である動物への憑依能力を身に付けた存在であった。

 確かにその方角にタッタが居て、実際かつてのウサギのように、命の引き替えにわが身を捨てて蛇に呑ませたのであるが、「兄貴」であるチャプラをライバル視する若い弓の使い手に助けられて、蛇の腹から救い出された。

markovproperty.hatenadiary.com

こういった話は仏教に限った話でないと思うが、チャプラの身分差を越えた立身出世という世俗的な欲が、タッタの種別差を越えた生命観に照らされて、皮肉に描かれるのが、最初の山場となっている。

成長したタッタは盗賊団の首領となり、世俗を代表する存在として、修行中のシッダールタと関わる。いつの間にか動物への憑依能力も失ったようだ。その能力を悟りを拓いた仏陀が発揮してタッタを驚かした。

タッタはチャプラやチャプラの母親、この物語の最初に燃やされた自分の母親の仕返しのために戦争に参加し、像に踏みつぶされて死んだ。その戦争で仏陀ことシッタルダの出自であるシャカ族も数名の生き残りを除いて滅んだ。このとき仏陀はタッタの死と教えの無力さこそ嘆き悲しんだ。

その後陰謀渦巻くマガダ王国のアジャゼ王の病を救ったときの微笑に

「人間の心の中にこそ・・・神がいる・・・神が宿っているんだ!!」

と悟りを拓いて、弟子に教えを託した後に、病に伏せて涅槃へ旅立った。

ということらしい。結局、『忍者武芸帳』のような所謂「歴史大河ドラマ」をプロレタリアの影響抜きで描きたかったのではないかと思った。チャンバラ込みである。
最終的には現代的な文明批評も少しだけ入った。
輪廻を説くのであるが、真に生命の平等観に拓かれれば、生きながら動物へ憑依できる、すなわち、動物の生を生きられるのが、特殊な設定なのか、もともと仏教にあったのか、そういう話である。

さて、仏教の逸話を欠いてしまったがゆえに、どうも『忍者武芸帳』の再解釈になり損ねた『どろろ』である(反対から言うと、『ブッダ』は、『どろろ』を仕切り直して、うっ憤を晴らしたような漫画である)。

ピカソの有名な言葉がある。「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」

 

百鬼丸の48の欠損であるが、どう考えても48もない。浄土真宗なので48本願かとも思ったが、特に意識されてるようにも思えない。
それよりも、ほかの何かでないかと思ったのである。

三科 - Wikipedia

六根清浄 - Wikipedia

阿頼耶識 - Wikipedia

心所 - Wikipedia

取り戻した身体を順に並べると、

(16匹でへそや髪の毛、)右手、左目、鼻、右耳、右足、声(ことば)、右目、(5、6匹の妖怪を仕留めたが何を取り戻したか不明)。

どうもちぐはぐだ。獲得と喪失が物語に繋がって来ない。身体を取り戻して「よかった」でしかない。それはそれで悪くはないが、アクション漫画の域を出ない。『忍者武芸帳』とは別様のもっと「大きな物語」を志向していたのではなかったか。

どう見ても『あしたのジョー』であるし、実際、初期設定は、相当近い。
しかし、内容は、完全に異なる。『忍者武武芸帳』と『どろろ』もこういうことではないかと思う。

別に元になるアイデアがあるのではないだろうか。
もっとも有力と考えられるのは『ブラック・ジャック』のピノコと同じくピノキオではないかと思う。

ピノッキオの身体をめぐって―〈ピノッキアーテ〉と視覚文化,石田 聖子

アルド・パラッツェスキ笑いの詩学 : 未来派宣言「反苦悩」と『ペレラの法典」を中心に,石田 聖子

Il codice di Perelà : Palazzeschi, Aldo, 1885-1974 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

Aldo Palazzeschi - Wikipedia

フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ - Wikipedia