天皇制批判の(法学的)常識 "oath"and"pragmatically"

アメリカとハワイ、フィリピンは?

こういうのは、通常、前期、中期、後期に分けて、日本の「植民地経営」は後期に分類されるんじゃなかったかな。それ自体古い議論形態だけれど、「植民地的性格を持つ」とは言えるんじゃないかな。

というのは、近代化を工業化乃至資本主義化と捉える延長に、この議論はあって、本当は「ポスト・キリスト教社会化※」で、いっしょくたになったものだけれど、今件に関して言えば、やはりイギリスと世界の相克である、「帝国主義」と「国際主義」から考えるのが妥当じゃないかね。「帝国主義」という言葉自体がリベラル寄りだから取り扱いに注意しなければならないけれど。
そもそもイギリスとにしたところで、一夜にしてイギリスとなったわけではない。

法学的には、憲法と主権で、「国際法一元主義」が危険なのも、この文脈による(そもそも「永続平和」のカントはあのドイツ人だ)。
議会主権を採ると、議会支配を通じた、憲法支配による属国支配が可能だった、「帝国化」(例として、デンマークスウェーデンの関係。)の歴史があるからね。

戦前のエリートが傾いたドイツ思想は、いろいろな意味で、問題含みなんだよね。

※こういう見方の利点は、線引きしないで、スペクトラムに見るところで、要は、キリスト教社会の性格を色濃く残していることを受け入れられることなんだね。もっとも顕著なのは、「地中海世界」の中での(明らかに後進的なヨーロッパにおける)カトリックの位置づけがある。

 

これすごくいいですよ。
歴史法学に真向から挑戦状をたたきつけている(というと、著者的には「違う」んだろうけれど)。リベラル寄りに見えるけれど、文献学的で、自由主義

イェール大学は法学博士第一号の鳩山和夫も学んだけれど、要は、ハーバード大学の「科学主義」と相対する方法論も持っていた(やがてハーバード大学の方法論も受け入れるけれど)古典主義の「本山」だからね。

やるねぇ、って感じ。今AIの時代だから、こういう方法論が本格化することこそ、求められている。国語、言語学の方面ではやっているみたいだけれどね。法学もね。

 

それでね。

このままだと「リベラル寄り」になりすぎていてモヤる向きには、ここにね、「エラマン・ノート」を導入すると、いいのよ。「エラマン・ノート」はミシガン大学の資料なんだね。

この人の言っていることが、一般的な「常識」なのか、文学的な 、、、、 (したがって、主体的な、感情的な)思い込みなのか。

議論=会話の(公的な)議事録未満のメモなんだけれど、「生々しくて」、だから、言語分析できるんだよ。

そうすると、ここから、(現在でももちろん通説である)「法学的常識」が無理なく導き出せるわけ。

小谷野さんって、本当に「天皇」が好きなんだけれど、この人の場合「東大生活のトラウマ」と「東大を中心とする学閥政治」或いは「リベラルを中心とする文壇政治」の傾向がみられるかなぁ。彼は「元祖、東大ラビリンスに迷い込んだ庶民の子」だからねぇ。東大造ったの一面で加賀藩なんだから(それは冗談だけれど)。そればっかりじゃないと思うけれど、資質の問題もあって、けちょんけちょんにやられまして。

法学的常識はまったく違うと思いますよ。