天皇制批判の(法学的)常識 "oath"and"pragmatically"

まだ途中であるが、だから、小谷野さんには、「天皇制の(法学的)常識」はおそらくわからないと思う。

そもそも憲法を読めるのか怪しいからだ。
憲法を読めずして、現在の天皇乃至天皇制は理解できない。

憲法を(このレベルで)読む」には、踏まえるべきことが、いくつかある。
それが「学問」である。

  1. 天皇」は一つの主体である
  2. 1故に、「天皇」は「行為」を単位として参照される
  3. 天皇」は「憲法」の権威より上ではない
  4. 天皇」は神秘主義的、宗教的な存在ではなく、実用主義的な存在である
  5. 1故に、「天皇」は国家機関であり、厳密な意味での「官職」ではない
  6. 天皇」と「国家」は、契約的な関係と非契約的な関係からなる
  7. 天皇」には「皇室」と謂う内容を併せ持つ

とりあえず、言葉足らずかも知れないが、これだけのことが言えると思う(4に関しては、権力関係のことであるから、「役職」ではあると思う)。
だから、簡単に言うと、「アメリカ」と謂うときの外国に近いものがある。つまり、「国際法」(主権国家群)と「国内法」(一主権国家)と「天皇」(その他の同等な一主体)があると思うと イメージとして 、、、、、、、 わかりやすい。

天皇国際法上の「主権」はないが、「人権」はある(人権の享有主体)。
しかし、「日本国との関係」という閉じた関係では、この人権は「国民の人権」と比較されるべきで、集合的な主権的意味合いを持つ。
すなわち、 組み入れられた 、、、、、、、 (二重)構造となっているのだ。
これは防衛でもそうだが、何でかというと、単純な論理では近代国家の建設が困難な状況を迎えるからだ。

国際法と国内法でもそうだが、(単純な一元主義でも単純な二元主義でもなく)適切なダブルスタンダードであって、互いに目的化できる(組み入れられる 、、、、、、、 )のである(国際法の場合、「一元主義」を標榜しても、実際は、折衷的な一元主義、或いは、国際社会においては「「国際法を唯一尊重する」と主張する」と二重括弧化された文脈主義である)。


だから「天皇制」で近代的な視点から問題視され得るとすれば「身分の上下」ではなく「国民からの排除」なんだね、法学的常識ではおそらく。

だけれども、「アメリカ国民」と「日本国民」を区別できるかの問題に近くて、実際は「できる」。
ただし、そこは、「天皇」に対外的な主権が認められないにも関わらず、国際法に比する、「国際法的」な信頼と信頼の醸成に依る「関係の構築」が前提となる(これが→6)。しかし、それは対内的な、権力関係から成る、主権でもない。

こういったことを考える時に、

法の、概念からの「逃れられなさ」をどこまで踏まえられるかが、試されている。
小谷野さんは、こういう常識的な法学のスタンスに立たないから、おそらく読めないんじゃないかなと思う。

彼は文学者なのであって、「プロレタリア文学」があるように、素朴実在主義(彼は科学も尊重するけれど、科学主義ではない。)に立って「天皇文学」として文学的素材にしつつ、おそらくその経歴から政治的素材にしているだけだろうと思う。

私たちからみたら、「常識」にはならない。