美濃部の方法論

まだ、ちゃんと読んでいないが。
美濃部の素朴実在論は(ケルゼンの、美濃部の批判するところの「観念的実在論」の後)宮澤に於いて科学的実在論に向かったらしい。

👇蓑田による批判(蓑田胸喜森鴎外は論争好きの双璧のようだ)
美濃部博士の大権蹂躪 : 人権蹂躪・国政破壊日本万悪の癌腫禍根 - 国立国会図書館デジタルコレクション
まさに北一輝の批判した、政体・主権論が、たびたび繰り返されるのである。
尾高・宮沢論争 - Wikipedia

どうも宮沢にとって、主権とは政体(政治)と密接不可分で※、民主制を純粋演繹から成って『観念的』であるとしつつ擁護し、同時に『社会実在』も必要としたのである。
観念的実在と経験的実在の一致が宮澤にとって『科学的』であったと考えて差し支えないだろうか。
※彼の最初の著作は『衆議院議員選挙法』(1929年)であり、その次が『選挙法法理』(1930年)である。モンテスキューに関する著作もあるのは興味深い(1937年『モンテスキュー法の精神』)。

ところで、美濃部は一体誰からどのような影響を受けたのか。
穂積は分かる。上杉もわかる。
なぜ、最重要人物である美濃部が、簡単に、わからないのか。
日本憲法史における最大の謎である(簡単に説明されていないことが)。
美濃部はイェリネックを「解釈」しただけである。
美濃部(卒業席次1番)の師は一木(卒業席次1番)であり一木もまた誰の影響を受けたのか容易にわからない(東京帝国大学法科大学政治学科卒業席次1番は分かる。官報に乗っているし※、当時出版された、同時代の人物を評価した本にも載っていた。兄は総長になった人物であるが、「それよりも上」との評価であった)。著作は在る。
※ちなみに関係ないが、一木が卒業した年、平沼騏一郎が特待生に選ばれていた。平沼は一木の次の首席で『辞職を希望する一木喜徳郎枢相が後任に平沼を推す一方』(平沼騏一郎 - Wikipedia)とあり、不思議な関係である。それまで一木は平沼にけちょんけちょんにやられていたらしいのに、政治的配慮だろうか。
一木は報徳思想を広めた父親の影響を受けているだろうか。父親は二宮尊徳の高弟である。
二宮尊徳はオリジナリティーに溢れた人物で自己の思想を打ち立てたが、とりあえずは朱子学の影響"も"受けていることは分かる。
それならば美濃部による解釈の融通無碍ぶりもよく理解できるのである。

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