子規の心情

だから、漱石は偲んでいるのであろう。それが彼の償いである。
償いとは本来そうでないもので埋め合わせることである。子規の文には償いがなかったのである。償いがなかったのであるから、ただ愚直なだけである。

おそらく子規にもそれがわかっていた。そこにあるのは寂しさだけである。

 

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『一拙字』と一拙事と言わない漱石の面目躍如であるだろうと思う。漱石の文章は一字一字が重い。流々と読み進められるのであるが、軽く読み通せない。

たとえば、我々は(おそらく我々自身の経験に照らして)「強がる」と言ってしまう。「強がる」とは「強」に接尾語「がる」がついて、表見上現れない内心を察しているのであるが、漱石ならば、安易にそう言っただろうか。

漱石が言っているのは、一語の重みは、そのための「拙い」説明に匹敵してなお、旨い文を為すことである。
それを漱石自身が過分な言葉を弄した拙い弁明で伝えているのではないだろうか。しかしそれは軽蔑されることではない。旨いにも二種類あって、軽蔑されるだけではその拙い文章を以て故人を偲ぶことにはならないだろう。せめて雄大さが在れば償えるというのみである。

「病気であった」(或いは次の「肘をついて描いた」)などという端的な事実は過分なこととして『省略』してよいができなかった寂しさが残るのみである、それは愚直な旨さを指向するにあたって、それを隠せない弱音であっても、強がりだろうか。漱石の言う雄大さは強がりで償われることではないだろう。彼の畢竟を思いやるのである。

 

ひと言でいうと、

「このありさまだよ」
「わかっているよ」

こういうことである。

「らしくない弁明するにも、言葉が少ねえなぁ」
「仕方がないんだよ」

つまり、

「構やしないよ、ただ寂しいな」