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Mkengar ベスト1000レビュアー
5つ星のうち5.0「甘え」は深い
2020年10月25日に日本でレビュー済み

本書では日本だけでなく西洋(欧米)との対比もなされていますが、私が最も興味深かったのは、なぜ欧米人は個人主義が進んだのか、という点についての最後の著者の主張です。欧米でも中世までは単一組織にしか所属することが許されていなかったが、近代化の過程で複数の集団に所属することができるようになった。これこそが自己意識、あるいは個人主義の強まりにつながっているのであって、

小谷野敦
5つ星のうち1.0 堕本
2007年5月28日に日本でレビュー済み 

その多くは、歴史的変遷を無視して、一つのキーワードで古代から現代までを説明しようとしているのだ。

 

加藤陽子は学者としてはまことに尊敬すべきだが、ご自身も学術会議で同じ轍を踏んだと思う。

まず、日本の近代化が「革命」であったと理解できるかどうかで、これが難しいのは、レジテマシーのまさに(加藤の述べる乃至は胚胎する)「論理問題」に過ぎない、、、、からである。それはイベントにあるのではなく、解釈の語彙にあるはずである。しかし、それはどうしても専門性が高まるために、人口に膾炙するわけにはゆかない。 

日本の近代化(明治期から、大正デモクラシーを経て、終戦までのファシズムの時代)は、ざっと概観すると、「藩閥時代」「学閥時代」「軍閥時代」に分けられると思うが、このときいつ「革命」があったかを考えることがひとつのメルクマールになるだろうと思う(それは語意の問題であるから、それをどう評価するか=賛辞もしくは非難するか)。キーパーソンは美濃部である。

私などの片々たる「庶民」からすれば、半藤も同じで、「学閥」エリートたちが、「軍閥」エリートに負けた恨みを晴らすと同時にそれを無駄に警戒しまた戦後あらためて勃興した「大衆」に対峙する緊張感を以てどう懐柔するかーそれはかつて軍が経験したことであるがーを持っているようにしか見えない、、、、。学術会議は機能的にはほとんど意味がない。ただ、サロンとしては意味がある。勲章および褒章にいくつもの種類があるのと一緒である。学術会議も内実は「顕彰」と呼ばれる褒賞である。特に文系学者にとってはコミュニティーで比べると劣勢なのは見て取れる、、、、、ので、このようなサロンが求められるのだろう。 

 「 子どもがいつ子どもになったか」は近代化の問題として重要で、「近代家族観」にもかかってくる。どちらも言葉の問題であるが、構成の問題と解釈の問題は異なるのである。ともかく、フランスでは、近代的な社会効率を求めて社会問題のソリューションとして「家族観」が提示され啓蒙学者たちから主張されたようである。

日本の「家族観」で中心に或る「母性」とは戦後の法制度上の語彙であったが、いまでは人口に膾炙して逆に母親たちを苦しめることとなっている。法制度上の大家族は解消されたが、社会制度としてただちに解消されるはずがなく、対抗言辞として準備されたものが、社会の現実が法に追いつくにつれ「対抗すべき対抗」を求めて摩擦を生じているのであろうか。ならば(医学上はともかく)法制度上の「母性」はなくせばよいがそこにすでに利益が在るので難しい。そこであらためて「父性」を持ち出すのであるが、社会制度と機能的に等価な社会単位に引っ付いた言葉なので、どうも難しい。

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👆子どもが「お父さん」と認めなかったことがキーであると思う。ただ子どももよく見ているので、モラハラが許せなかったのかもしれない。 

 👇立ち寄った店舗にたまたまあって今読み返すと、衝撃を受ける(リアルタイムで読んだことはなかった)。「女の子」を礼賛して恥じない。 これはたぶん梶原一騎の後継であって「劇画」のしかしコメディ路線なのだろう(あだち充さん自身もそうおっしゃってなかったかな。『サンデー』誌上で一時期、『まんが道』だったか忘れたが、なじみの漫画家が数ページ ただ、きうちかずひろさんは別の雑誌で読んだような気がするので、あだちさんんもそうかもしれない)。

 👆小料理屋の女将の飲んだくれダメおやじが。。。「できる女」も「ダメな女」も例外なく浮気すんのかと思わずにいられないが、そういう物語り(解釈論理)なのだろう。

 

 

 生活を見直すにあたって参考にしようと購入した。

 「あたふたさん」のスピーディー学習と「ちゃくちゃくさん」のスロー学習の対比がなされる。分析的知性が「総当たり検索」とならないのは体系知に基づくからだが、だからこそ習得に時間が掛かって、それは事後方法的に抽出される。いわゆる「箱の中の象(像)」のパラドックスで、概念は全体像からでないと推し量れないが、部分的に利用できる。とまぁ、そんな説明が施されているわけではないが、おおむねそんなところだろう。
そう考えると、最初の「もらはらさん」は「あたふたさん」であると同時に「おいかりさん」になっている。或いは、 ご自身はご自身で相談をしに行ってみるのはどうだろう。何かしら得られることがあるかもしれない。

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👇は寺山修司の無責任な暴言がもとになっていたが、

取材を通じて思い知らされたのは、「われわれが『感性的な表現の豊かさ』と勝手に思っていたものは、実はただの情報格差に過ぎなかった」という事実である。

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 これもまた「昭和」「戦後」がどのような言葉で彩られていたかの一例である。

都築 直子

救ひなき裸木と雪の景果てし地点よりわれは歩みゆくべし

中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)

一首鑑賞 » Archives » 救ひなき裸木と雪の景果てし地点よりわれは歩みゆくべし

 はもともと

救ひなき裸木と雪のここにして乳房喪失の我が声とほる

中城ふみ子 - Wikipedia

 で『冬の花火』だったそうである。もとの句と題名がよいと思う。というのは、句の内容と題名が「言い換え」の関係だからである。上の場合は「解説」である。

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「救う」とは心情的な反映でもあるのだが、この場合、視覚的な意義があって、つまり、上からこの一室を眺めたとき、雪原の中にそれぞれにポツねんと散在する、枝を剥き出しにして尖らせる枯木が、声の網に拠って集められる様であるが(或るいは、スクうに掛けるのであれば、たもで掬う様かもしれない。)、それが一瞬のことでしかない。それを夜に輝く星たちを繋ぐ七色の閃光に(明暗反転して、或いは両義的に)準えるのである。
もともとはもう少しふくよかな意味を堪えていたのではないかと思うが、「我々」はそう読み込む。
この句が歌人寺山修司の出発点であるらしい。
そして、寺山は次のように詠んだ。

新しい生活がどのような生活かという描写はしないが、「クロッカスの歌」「新しい家具」「きみが歌う」という提示において、新しい生活に入る君との関係とそれに伴う作者の心情を浮かび上がらせるという手法で表現されている。

君の歌うクロッカスの歌も新しき家具のひとつに数えんとする/寺山修司訳,句切れ,解説,

対照的である。すべてが反対に置き換えられているが、「救い」が解消されたらそれでよかったのだろうか。
それをスマホが暴いたのであった。

👇は「学校の問題である。「学校」は、様々な解釈論理に彩られるが、その社会的意義は社会構成員の再生産であり、構成的意味は(資源活用並びに)資産運用であって、したがって「家族」との相同性が認められる。


難しいのは、解釈論理上に受験があるからである。学校は受験のためにあるのではない。しかし受験は解釈論理の重要な位置を占める。「社会構成員」と「私」は社会機能上同義ではないからだ。しかし受験の「花火」は「私」を求めてやまない。これは心情的にもそうであるのは、昨今の受験制度の見直しの議論の中で、いわゆる「一発入試」が「人格一元論」をあらためて彫琢したことから明らかである。
学校は社会制度の一環であるが、そのひとつ乃至ふたつ外には企業社会が在り、そのひひとつ外には市場社会が在ったのであった。受験一元化は制度的には共通一次からセンター試験を通して進んだが、これを学生運動崩れの一部の予備校講師たちが神経質にこだわったルールの厳格適用というルールの一元化によって補強したことは注目されてよい。我々自身が不可解なリクルートスーツの就職活動を生む社会契約にサインをしていたのである。これは一方でエントリーシートに代表される就職マーケットの行き着く先であるが、それが一方の「扉」に過ぎなくて、同じように入試マーケットが着々と形成されていたのであった。これが「マーケット」ではなく「カンパニー」であったなら、「ムーミン」をどう解釈しようと明らかにおかしくなければ大学が一元的に決めてよいのであった。すなわち、学生運動などは、しょせん「跳ね返り」であって、「対抗言辞」に過ぎないのであった。
このような幾重にもいわゆる「同心円」を描くのが昭和の風景である。そのように無意識に追い込むのが常であった。口先で何を言おうと、国家がすべての社会を内に含む最も大きな社会であることに同意しているのであった。

 

自分はと言えば、もう小学生から人生をやり直そうと思い、 

を始めたのである。初っ端から軽い衝撃を受けた。
前書きの中に、(本題に入る前の)予備問題があるのだが、これが「エラトステネスのふるい」を表現した問題なのであるが、これを100の数に限ってまた表示することで、すごく意義深くなっているのである。
原理と制限と表現と、またこれが『おうちのかたへ』提示されることによって、さらには傾向を同列に扱ってエレガントなのである。
そうしたセンスに拠って構成されたこのドリルで得られることが「読解力」である。
実際どのようにして解くか。

 

〇事前の準備として、せいぜい10(乃至20)までの数にある素数の確認と九九の確認をする。

〇問題中の、ある一つの、2つの素数の積で構成される(2マスを持つ)数に着目する。

〇その数が4や9などある素数の二乗の数であるなら直ちにその素数で2マスを埋める。

〇全体を見まわして、同じ数を確認して、繰り返す(表上をぐるっと繰り返す)。

〇次に、9や11など、なるべく小さい数から、いかにもその積が逆算に拠って明らかになりやすい数の確認をする。このとき、上ですでに埋められた3についても同様であって、3を約数に持つ数の行もしくは列に於いてどのマスに3を埋めるのかの選択にかかってくる。9を約数に持つ数は比較的多くないので、制限選択の判断としてはある程度有効な指標となる。

〇表上をぐるっと繰り返す。

〇四マスのスクエア上で考慮される「場合分け」による推論(試行)を行う。
よくあるのが、2×3のたすきがけで、2で二マス、3で二マス埋められる例である。

〇表上をぐるっと繰り返す。

 

つまり、「読解力」とは、このような全体を通して繰り返し行われるアルゴリズムの遂行のことだったのだ。ここにはデカルトの判断推理もはいっている(小さいことからの判断から大きなことの判断へ進む)。

低学年で掛け算を習い、九九を訓練し、100までの数を扱えるようになったら、直ちに初めてよく、これと文章を読むことを並行に考えてよいと思う。つまり、文章題とはもちろん文字で書かれているにも関わらず文脈上意味を持つ「記号」の集合として捉えられていないことが、「読解力を欠く」状態であるからだ。全体を通して「(再)記号化」する営為が「読解」である。そのための視線を与える必要があったのである。

 

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