矛盾は分析からしか生まれない、分析の産物であることを知っていることの有用性

それは解釈であって、法学史の説明にもある矛盾だが、発話者がそのような原理にしたがって発話していたかは不明なところ、そのように理解すると円滑な説明が可能であるという期待を込めているのに過ぎない。実際は相当無理が生じている場合が散見される。

 

原理的に演繹していると考えると、ほぼ意味不明である。

 

さて、問題文を見ると、古文であるが、文中に現れる「の」について、「主格」であるか「同格」であるかが問われている。

そのような(学問上セイトウではあるが)「解釈上の意味」を棚に上げ、論理上の意味を想像してみたい。

【格助詞】「の」の識別方法がわかりません
高校生の苦手解決Q&A Presented By 進研ゼミ高校講座

この理解に沿うならば「ありしは」は「あり」「き」「は」とある「は」の前に体言が省略されている格好とすると、「き」に関して(せ・〇・き・し・しか・〇)から「し」へ活用するのであるから原則通りである。

高校古文5分で解ける!「き・けり」の活用と接続に関する問題
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「ありおりはべりいまそかり」とは?意味や使い方をご紹介
コトバの意味辞典

すなわち、

  宰相と言いし人の、女二人、男一人ありし人は、


ということである。
このとき、「主格」と考え、「主格」の助詞が支える名詞が「主語」であるとして読むと、主述が捩じれるという話をしているらしい。
すなわち、


  宰相(と言いし人)〈が〉法師である。

 

という矛盾である。これは〈が〉なのであるから、〈は〉と異なると論理的に考えるならば、歴史的に見れば〈が〉は〈は〉より後代に使われたようで、「それはそうと」の持つ止揚感がある。すなわち、

  宰相と言いし人が居たところ、女二人、男一人あったは、

 

となるが、なぜこう言えるかと云うと、関係節を用いて内部化したからである。


  there was a man ,who had two daughters and one son,and he


 の he が元の man のことか、直前の son のことかわからないと言ったことに寄せたのである。本意は and にある

  私が法師である

とは、〈が〉に関して

  ここに「私」が居るのだけれど、その「私」について、法師である(と言える)

ことを含意している。要は、「私が」と発話する当然の前提に、「私が居る」があるが、省略されているということである。つまり、「発話」(する主体)が背景に隠されるのである(そもそも、係る分析ツールを使っても、「主語」と「主体」を分別できない)。
後から解釈されるべきテキストとして「在る」のではなく、発話で順々と流れてゆくことを前提して、順次想起させるのであれば、これが自然ではないかと思う。
日常会話でも不断にあるからである。
いちいち分析的に話すのが不自然であって、そもそも統合的に理解されることである。
それを(だから、アドホック分析ツールを使って解釈しているだけのように見える(要は、解釈の為の解釈である)。だから、矛盾が現れる(そもそもそんなつもりで発話しているのではないはずだから)。
ただ、想起文が、ずらずらと繋がれているだけだと思う。


高校生の古文粗、問題を適示しやすいが、法思想史の読みにくさは、こんな基本的な参考書なのに、まさに言語を絶するものがある。なんでこんなに読みにくいかを考えたら、これがただの「解釈」だったからであるといのが、今回の発想の下となっている。

英文にすると、関係詞を通じて、「同格」と「主格」が混同される意味合いが、より明瞭になるのではないかと思った。

日本語は決して非論理的な言語ではないけれど(非論理的な言語はそもそも形容矛盾である。)、非論理的に解釈しているから、非論理的に見えるだけなんだよ。

 

 

古文って必須でやらなアカンか?
法思想史と大して変わらんのやけれど。
受験産業」というマーケットメカニズムが働いているから、こうして豊かな言論空間の恩恵に与れるのは確かだけれど、そんなのいつやっても、同じやで。
だって、反対から言うと、「昭和」の時代って、めちゃくちゃ学習環境悪かったってことやぞ☟。それでも必須って何の意味があったんや。情報が安価になってわかったのは、それがただの話柄に過ぎんってことやろ。

だから、好きな人は好きだよ。それはまことに結構なことです。
でも、古文をやると論理的になる、というのは、そりゃあどうかな。
古文を「やる」とじゃないんだな。古文も言語だから、言語の定義として論理的であるに過ぎないだけで。
論理的に読めるには「論理的読む」訓練が要るわね。

矛盾は分析からしか導出できないことを理解しないで、どう論理的に読むんだよ。

 

☞だから、「枕草子」が珠玉のエッセイで、「源氏物語」が極上の恋愛小説だからね。

あほか。そんなわけあるか。
ところがそんなことないわけでもない。
つまり、

千葉雄大×伊藤沙莉「いいね!光源氏くん し~ずん2」6/7(月)スタート!

https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/20000/446528.html

なんかっちゅうと、歌を歌っている人たちだったのであって、

よい歌は薬だったし、悪口は大罪だったわけだ。
そもそも歌は政治でもあったらしい。

それを「小説」「エッセイ」って近代的なジャンルで理解するのは(それ自体、分析の効果だ。)かなり、無理があるよね。

 

要は、曖昧模糊として、いまだ未分明だったにすぎないということ。
そういうことこそが、当然のこととして、受け取られるべきであると思う。