デカルトを見ていると、どうしてもカントが一か所だけ、すなわち最期※に出てきて、

デカルトの『幾何学』の支配的な時代が1650年から1700年の50年ほど続いたということで、その50年後に微積分が誕生する。便宜的にそのデカルトへの批判的な時代を迎えた最期にカントが出て、総合的な体系としての哲学を展望し終えて、カントまでは明瞭だった「哲学の歴史」を辿るのが難しくなるらしい。
ヘーゲルが出るが、もはや哲学で新しいことを述べるのが難しい時代で、ヘーゲル自身が慨嘆している。こうして分析哲学と大陸哲学は(統合されることなく)より鮮明に分かれることになったらしい。

この2つを読む比べることを始めた。さすが図書館だけあって、まだほかに大部の本が在るから、しばらく、それぞれのデカルトの事績の記載を読み比べられたらいいなと思う。

 

シェークスピアハムレットのセリフは、数多くある(24通りだったか?)日本語訳は『飯田先生』の訳のような話で、あれはおそらく、キリスト教の問答体を踏まえていて、「善き死」について述べているので、当時の倫理の標準的理解なら「当然「死ぬべき」」だけれども(だから、物語上も、最期に死ぬ。死に方問答だから当たり前である※)、「死に方に『問題』がある」というセリフだろう。

※だからむしろ、悲劇よりも、喜劇の方が、特に松竹新喜劇のような大衆喜劇の方が、途中ドラマチックでもあるし、ニッポンの庶民にはわかりやすい。近代的個人の理念の洗礼を受けた後の現代人から見ると「阿呆」を挟むくらいでちょうどよい。

死が倫理的に「怖い」わけではなかった時代では、亡霊がやたらと元気だったのだ。亡霊の元気がなくなったのは(哀願する亡霊の登場。)、「死」が倫理的に怖くなってからである。

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生者が忘れると、死者に「本当の「死」」が訪れる。

ヘラクレスから読み解くハムレット
ハムレットは古典の翻案で、ヘラクレスがどうかはわからないが、精神的な故地デンマークの英雄伝と(比較的新しい)キリスト教倫理の当時らしい融合の仕方が鍵じゃないかと思う。要は、「ヘラクレスの時代」とは「国家統合の時代」で英雄伝が好まれたというなら、わかる。

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これが一番しっくりする「訳」だろうと思う(コメディーという「転倒(倒錯)」であることも含めて)。
或いは、(「死ぬべきか」の前の「生きるべきか」は)修辞的な問題に過ぎない。



それで、前回に続て、ofとaboutの違いに敏感になるなら

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すなわち、キリスト教の「風」理解を受け継いでなお、カポーティーとディランに違いが出ることを認めるなら(仏教理解なら、西田幾多郎鈴木大拙みたい。日本三大「セミ・キャリア」の2人で、もう一人は、ノーベル賞の選考にも乗ったと評判の、「大谷崎」こと谷崎潤一郎だが、西田幾多郎は概念的なオカルトー反数学・科学革命ー受容で、鈴木大拙はロッジ的なオカルトー反数学・科学革命ー受容)、

 

例えば、財務省の防衛予算の「教書」が酷い評判だけれど、それは理解の仕方に誤解がある。
つまり、財務省は文官なのだ。すなわち、武官ではない。
どういうことか。
本質的には、財務省の主張も「どっちもどっち論」なのだが、「どっちもどっち」というときに鍵になるのは「鏡像的理解」であって、例えば、ナチスドイツに蹂躙される前の、「世界一の陸軍国フランス」の軍事力の平時における意味である。ナチスに歯が立たなかったから、フランスの軍事予算に「意味がなかった」とは、財務省は考えないのだ。反対に戦争になってしまえば、所詮「言い値」だから、せいぜい「積み立てニーサ」(国債運用)でもするくらいである。
このとき、平時の外交に置いて、どうふるまうべきかについて、

 防衛予算  is spent for   外交 about  軍事

であって、予算  of  戦争 ではないし、 予算 of  外交でもないため、「できる限りの外交」であっても、無防備を企図するものではない、というスタンスで在る。
しかし、戦争の勝ち負けは、特に気にしていない(そんなことは財務省にわからない)。
したがって、係るスタイリッシュな予算「教書」になるんだな。
「格好良い」わけよ。