markovproperty.hatenadiary.com

要は、シェークスピアは、やたらと『一休さん』に似ているのだが(ひょっとしたら、脚本の参考にしたかもしれない※)、いままさに一休禅師を出したように、修辞的なために、禅問答と受け止めてしまう。
※うろ覚えだが、アニメの『一休さん』は、一休禅師の逸話に拘らずに、いろいろなものを参照していたように思う。

イギリス人はここから論理学を生んだのだ。

鈴木大拙西田幾多郎にしたって、そうで、彼らは論理主義がよくわかっていなかったのに過ぎない。アリストテレスは「論理とは、新しいものを生むこと」だと明言しているのだ。そこに明示しているかではない。
「美は醜であり、醜は美である」と言ったとき、二分法の弊害を言っても仕方がない。
それら論理の実があるとき、論理の胚芽があるのに、過ぎない。

それでは、日本人に、このような考え方が「なかった」かというと、そんなことはないのであって、要は、禅以前には、あったのである。
色である。日本人の原色は4色であるが、これは双対的な回転関係である。「黄味」の変化として、黒(黄味感が奥深く達成された状態:幽的な玄焔の黄色も微かな深い色)→赤(徐々に薄まって)→白(黄味感が無の近傍:シーニャ構成的な空:梵)と双対になる、黒→青→白であるが、結合して、白→赤→黒→青→白となると1日の変化と太陽の運行である。このとき、白/黒の二分法と考えるのは、識字学である仏教の影響ではないかと思う。すこぶる便利なので仏教用語で説明したが※、文字が流通する以前から、4原色はあったのだったろうか。忘れてしまった。※実証学である仏教は便利なのである。
そして、仏教が識字学であるがゆえに、禅がまた生まれたのだ。


シェークスピアは、古典の翻案のそれ自体古典劇なのだから、『ハムレット』は松竹新喜劇で、『マクベス』は『一休さん』で見た方が、日本人にはなじみやすいのだ。

わざわざ木を抱えてきて、ライン踏まなきゃO.K.って。

youtu.be

youtu.be

指パッチンしている間は大丈夫。