島崎藤村の〈では〉とは

この湖ここだ!

 ↳一番深い

いかにも英語っぽい表現
日本語だと

この湖ではここだ

つまり、英語ではコピュラが〈は〉を以て措定になっているのに対して、日本語では〈で〉と〈は〉で複合的になっている。ここらへんが、日本語でロジックを意識しにくいのかもしれない。

ルターの〈の〉、フィヒテの〈し〉に続いて、藤村の〈では〉

冒頭文だけ読みたいが、ちょい読みできない。

興味深いのは、小谷野さんが、

さびしさ鳴る。

蹴りたい背中

推し燃えた。

『推し、燃ゆ』

を比較して、宇佐見りんを激賞することだ。
綿矢の場合、(ありきたりの理解だが)サガンを補助線に引いた方がわかりやすいと思う。

ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私迷う。

1-04③『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳 - ウラジーミルの微笑

サガンは、デカルトの人文学以来の伝統を踏襲して、『私』を中心に置いて哲学的である。綿矢の『さびしさ』もこれに倣ったものだろうが、見えてこない。
ここで、アリス・マンローの冒頭文と比較できたらまた興味深いが、読む機会がない。

長距離列車で乗りあわせた漁師に惹きつけられ、やがて彼のもとで暮らしはじめる大学院生のジュリエット(「チャンス」)。娘が生まれ、田舎の両親を訪ねるが、父母それぞれへの違和感にこころは休まらない(「すぐに」)。やがて夫は諍いのさなかに漁に出て、突然の嵐で遭難。つねにそばにいてくれた最愛の娘は、二十歳のときに失踪し、行方知れずのままだ。いまやバンクーバーで人気キャスターとなったジュリエットは、ある日、娘の消息を聞く―(「沈黙」)。以上、マンロー版「女の一生」ともいえる“ジュリエット三部作”のほか、ふとした出来事でゆすぶられる人生の瞬間を描いて、マンローの恐るべき技量が冴えわたる短篇小説集。

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

綿矢を解説している人も居る。

そして1段落を経た2段落目では、「さびしさ」が視覚化されています。

芥川賞『蹴りたい背中』の冒頭が素晴らしすぎる!【僕が小説を読む理由】 | ホンシェルジュ

〈は〉は論理上措定辞で、〈が〉は論理上指示辞だろうと年来主張しているが、それを構造と様相と言い換えてもよい。
綿矢の場合、比喩であるから飛躍で、ならばアリストテレスの論理に近づくだろうか。論理とは飛躍である(と謂うと語弊があるが、アリストテレスによると、ないものが現れる👉ロジ・コミック※。これは非常に重要な論理の基礎的性格の指摘で、「文理」とは本質的に異なる所以である)。

※オックスフォードの説明する聖徳太子の「論理」の説明もそうであるが、論理はやはりイギリス人である。

少なくとも、さびしさ〈が〉鳴る と区別する意図が透けて見える。
つまり、ここでは(アリストテレスの師であり、ゆえに哲学上の競合者である)プラトンとの比較、すなわち〈鏡〉と〈芽〉の比喩ならば、〈鏡〉の方であるだろうから、やはりアリストテレスだろうか。

超越に通じる無垢ー〈鏡の隠喩〉

P57〈鏡の隠喩〉のなかで : 脱構築できない無垢 | CiNii Research

おそらく綿矢の企図はこれだろう。
これが直観的であるとき高踏的であるか。

高踏派とは - コトバンク

苦々しい知識、旅から引き出される!
今日、世界、単調で、小さい。
昨日も、明日も、常に、私たちに見せるのは、私たち自身の姿。
倦怠の砂漠の中の、ぞっとするオアシス!

ボードレール 「旅」 Baudelaire « Le Voyage » 新しい詩への旅立ち 6/7 – LA BOHEME GALANTE ボエム・ギャラント

赤字強調は引用者。
これは良い対比を構成して優れた教科書になる。

そうなのだ。
小谷野さんはキリスト教もよくわからないし、星新一もわからない。
なるほど、自然科学がキリスト教から生まれたわけだ。措定的である。
夏目漱石もわからない。夏目は私の観測ではホワイトヘッドになり損ねた男で、右に小説、下に童話、後ろに神話、左に論理を睥睨して、実は井上毅もまたライバルだったのだ(見落とされていると思う。井上毅のライバルは仏教と神道である。元祖独派の、歴史法学を身に付けて論理で乗り越えようとした近代哲学者、言語哲学者のひとりであって、英派の夏目漱石にできないことを成し遂げたのであるが、日本人の言語哲学への軽視が邪魔をして、歴史から見落とされているのが残念である。丸山眞男言語哲学ではなく、徹頭徹尾政治学で、政治の一環である対話を研究したに過ぎない。一見、井上を引いて言語へ考察を加えるようでいて、それはほとんど無意味である。それがコピュラにたどり着かなかったからである。井上はいくつも起草した実践があるから丸山と実は一線を画していたのであった。そのような時代にできた明治憲法はロジカルである。日本国憲法は占領国憲法にあって非服従な韜晦に満ちて、「論理的であっては困る」体裁=非アリストテレス古文辞学=文理パズル=実は矛盾=したがって解釈的となっているのが特徴のひとつである。そうして、  はアメリカに直に解釈を尋ねるのであった)

宇佐見はそうではない、、、、、、、ということである。
まさに「私〈が〉どうであるか」を通じて「「私」という檻(環境)」を描いている。
発達障碍のことであるから、〈芽〉は〈芽〉でも、プラトンとはならない。

更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)よりも、美のイデアを愛することであると説いた。

プラトニック・ラブ - Wikipedia

宇佐見が言うのは「囚われた自分」であり、玉音放送への比喩はそれを最後に明かしているのであった。
つまり軽やかに、「昭和男のエゴ」を最後に裏切るのであり(したがって、小谷野さんも、軽やかに裏切られる。谷崎の本懐を遂げることができないのだ。)、ここらへんは西にも見られる最近の傾向のようだ。


【検討】

ロマ人への手紙(24章)
こころの律法/罪の律法と神の愛について

これは最も大きな存在である神への回収のロジックを謂っているらしい。
宇佐見にとってもっとも超えられない者は「自分」である。
天皇はまた別である。自然法との関係で歴史的経緯があるので、戦後の説明のように、一言で言えない。