志賀直哉を読むにあたって、ギリシャ哲学を無視することは、ほぼ不可能だと思うよ。

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だからへんちくりんな(リベラルな)階級論争になる。

むしろ、イギリス人の『ロビンソン・クルーソー』やその影響を受けた『冒険ダン吉』と比べればどうかね。

ちなみに、

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『フランシス・ソヴァール』でも、出自と「楽園」思想が出てくる。
だから、「白樺派」として理想主義なり近代性を問うには、階級から考えると意味不明になり(忌避して終わるのが「理想」であるはずがない)、あくまで倫理的な徳性の問題と考える方が自然だ。しかし、その徳性は、歴史がかっているのに過ぎない。

このとき、「秤」=計量化が、当時の社会科学の発展とも平仄があっている。
そういった意味で、J・S・ミルとかね。

満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして愚者や豚の意見がこれと違っていても、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである

ジョン・スチュアート・ミル - Wikipedia

イギリス人はこういったわけだが、小僧は(ここで謂う)「豚」でないかもしれない。なぜなら、その欲求を露わにすることに、羞恥心が働いたからだ。
このとき、「おかみ」の云った「粋」が、粋がっているだけなのかどうか。
だって、コントラストを為しているのだから、そのまま転換されるわね。
そこに明らかにされるべき徳性の目標があるでしょう?

そうか、こういう歴史もあったか。ありがとうございます。


小僧の神様』は、当時の人には、ピンと来たんだろうね。
今はなかなかわかりにくくなっているのかな?わからないけれど。

むしろ『城の崎にて』がわかりやすいだろうね。
論理構造はいずれもコミュニタスな三段論法だろうと思うけれどね。三段論法は、結果が自動的に出ることに目が行きやすいが、中間項の構成が本質。

なぜ、「コミュニタスな」と付けるかというと、倫理的に着地するのが特徴だから。
それが志賀の(白樺派としての)「理想主義」なんじゃないかね。