「挙国一致内閣期の枢密院-平沼騏一郎と斎藤内閣」(『日本歴史』352号、1977年)

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やたらと渋い研究をしている。

日本歴史. (352) - 国立国会図書館デジタルコレクション

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月刊雑誌『日本歴史』のご案内 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

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椿事件 - Wikipedia

共産党は、思想警察だからね。ウヨサヨと言ったところで、オカルトが浸透している。

適当な当てはめでいい絵じゃないけれど。

  • 日本は未だに、「前期近代主義」が主流であること
  • 「前期」「後期」は19世紀の数学革命と科学革命(方法論的革命)で別れること
  • そのバックラッシュで欧米と日本でオカルトブームが起きたこと
  • 共産主義もオカルト(ホーリズム)の一種に過ぎないこと
  • 方法論的な問題意識を持つかどうかであるが、近代主義に関して、近世的な「幾何的世界観」「解析的世界観」と後期近代的な「方法論的  」と「方法論的ホーリズム」がねじれた関係になり、前期近代主義は、この狭間にあるため、主体とホーリズムの関係から説明するのが妥当であること
  • 「近代」は、資本主義や工業化から事後的に説明されるが、本質的には、「近代以前」のキリスト教社会から説明されるべきこと
  • したがって、〈私〉と〈存在〉を巡って、現在においても「普遍論争」は有効であり、それは〈私〉の不可侵性と〈存在〉の普遍性の問題として惹起すること
  • 民主主義は多チャンネルで制度化されること
  • 軍と選挙は共同体を基礎に置いた動員に於いて双璧であるがゆえに、相補的に民主主義を発展させてきたこと
  • 本質的には、「中央の民主主義」と「地方における民主主義」のアプローチが、一体化する経緯に過ぎないこと
  • 日本に特徴的な民主的アプローチとして、「強訴」があること
  • 人気投票で派閥勢力が割拠した軍部に於いて、有望な少壮軍人が執行部を突き上げる役を担うことが(「若手の登竜門」として「成人儀礼」的な役割を果たして?)常態化していたこと
  • それは大学や高等学校における学生の暴動の根強い習慣や岸信介のような官庁における組合運動の場合と同様であること
  • 藩閥時代から梅津に至るまで、陸軍(主流派)は(もとより)政府の一員(一部)であって、「軍部の暴走」とは、そもそも一地方軍閥(「地方」出身の石原莞爾)の割拠主義に過ぎないこと
  • そういった意味で、藩閥に見られた「主流派地方」と「非主流派地方」の相克が持ち越されたに過ぎないこと(その中で、「非主流派地方」でありながら、門閥として隠然としながら有力であった加賀前田家の存在があり—そもそも薩摩藩を支援していたのは前田家加賀藩(富山藩)である—、宝生流能楽)家元の出である東條英機と微妙な関係となった。それは戦後も引き継がれ、「表日本」「裏日本」概念で色付けされた歴史から隠されてしまったことである。)
  • 「国体」とは、もともとドイツ法学の概念であり、「政体」「憲政」と分別しない未成熟な概念であったところ、近代国家成立に於ける(「近世」と別れる)「近代性」の特質としての正統性の帰属問題が、ドイツ帝国成立時の「国家主権」の両面的性格の混同の影響を受けて、日本自身の近世社会からの移行に利用されたこと。それは、将軍から天皇への二重権威の移行、旗本から官僚への実務の移行がある。
    ※教科書的に「二重権威」とは「天皇」と「将軍」で捉えられがちだが、実際的には「将軍」「大名」の「赤穂問題」がある。
    加賀藩の歴史からは、「海の200万石」—東南アジアから樺太に至る—と称された抜け荷の処罰と対幕府戦に備えた—或いは日本一の?―硝石の備蓄である。薩摩藩長州藩有数、、の「雄藩」だったというのは、おそらく「嘘」である。そもそも軍事的脅威は歴史的に見て、中国大陸、ポルトガル、スペイン、ロシア、アメリカの順であって、近世以降の世界動向から言って、少なくとも「新興軍閥」ではないか
  • 日本の「国教」が神道というのも誤解がある。事実上仏教であるが、(インド発祥の)仏教は、中国大陸の論争を経て、日本仏教は最初から、老荘的な自然思想と混然となって入ってきた習合思想である。
    これを無理やり分けたのが、明治期の廃仏毀釈で、伝統仏教の勢力を一時期衰弱させただけで、西洋哲学と習合した新しい仏教の運動が興った
    日本の仏教が習合的でなかったことがなく、仏教がこの国の思想を代表しなかったこともない
  • 一方で、カトリック系のみならず、プロテスタント系の日本メソヂスト教会も、確実に、日本に根を張った。
    ☟甲種卒業生の1/3が四高(やがて、おそらくほとんどが帝大)へ進学した、師範学校一中 とも違う、歴史に隠れた進学校、金沢英学院は、東洋英和学校(現麻布学園麻布中学校麻布高等学校)、鎮西学院(高等学校)、青山学院、関西学院などと同系統の学校だった。
    各学校卒業生状況報告. 明治44年10月現在 - 国立国会図書館デジタルコレクション
    日本基督教団金沢長町教会 - Wikipedia
    日本メソヂスト教会 - Wikipedia
    カナダ・メソジスト教会 - Wikipedia
    北陸学院(米国長老会;明治17年開学。)とも関係がなく、金沢英学院がどこへ行ったかは今のところ不明である。
  • したがって、この国の近代化の一つの到達点が、「象徴天皇制」と「葬式仏教」なのである。
  • 戦前の日本は、実質的に「君主制国民主権」を目指しており(一種の混合政体であるために、このような矛盾的な表現が可能である。)、君主から政治的能力を完全に抜いた「象徴制」によって、戦後完成した。