※旧経営方針への酷評コメント、原文は"crucifyingly boring"なんだけど、和訳がこれでいいのか怪しい
— りんゆー / Rinyu Tanitsu - 谷津 凜勇 (@Rinyu_DtD) January 5, 2023
crucifyingly
”boring”
出エジプト記の様々な英訳
Exodus 21:6 | Biblia by logos
”bore”=”pierce”※
その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。
現在、出エジプト(出国)は大きな組織からの退出という意味として捉えられています。
EXODUS 出エジプト記 (出エジプト記 12:31) | Society for English Learning Through Biblical Literature
※シェークスピアの『オセロ』では、以下のことでないかと考えていた。
(この孔が、イスラム医学に従って、精神的な意味も併せ持つ。ルネサンスは、レコンキスタ後の、キリスト教徒によるイスラム文化受容におけるルーツ消却の側面があるのではないかと推測され、”pierce”が”piece”とも「誤訳」される一面を生んだと想像されるが、真相はわからない)
当時は、食物は腸から吸収されて肝臓に行き、そこで血液になって右心に入るが、左右の心室を隔てる壁には小さな孔がたくさんあって左心に流れ込むと説いていたのです。
(P.43,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション)
”bruise”の一例
焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
該当英文、Exodus 21:25 | Biblia by logos
”piece”の一例
これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない。
該当英文、Exodus 28:7 | Biblia by logos
”heart”の一例
すなわち、すべて心から喜んでする男女は、鼻輪、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えてきた。すべて金のささげ物を主にささげる者はそのようにした。
該当英文、Exodus 35:22 | Biblia by logos
Cf.”broken heart”(”discouragement”)
該当英文、Exodus 6:9 | Biblia by logos"
heartの三段論法、”broken ”(”discouraged”),”harden”→”wised”→”willing”
シェークスピアの真意はキリスト教とキリスト教社会の擁護であって、これがその一端ではないかと想像する。
シェークスピアの不思議なところは、彼の「(言葉の)方程式」が、古典的でありながら、むしろ新しい点だ。
オスマントルコとの戦いを前にして、(イスラム文化との)「逆転劇」を演じる必要があったのではないかと想像する。そのためには、三段論法の持つ「飛躍」がお誂え向きだったのではないかと思う(イスラム神学を経由した後に花開いたルネサンスには、そういう側面があったと思う)。
シェークスピアは間違いなく「ルネサンスの子」であり、シェークスピア文学は間違いなく「ルネサンスの果実」なのであるはずだから。
出エジプト記で謂う「こころ」の問題こそが、『オセロ』の主題であると思う。
その三段論法には、アマルガムな存在乃至中間状態が、必要だったのだろうと思う。
それがユダヤ人である。
そう考えると、夏目漱石の『こころ』も、男性の”love”の問題であると思うが、現代的な「異性間の「恋愛」」未然の曖昧な話であって、女性はあくまで、節回しを付ける役割だろうと思う。
そうすると、日本の「国語(教科書)」は、相当奇妙であるのだが、これは「日本語」という相対的な文化の話ではなくもちろ言語学上の普遍的な存在でもなく、あくまで「法」であって「制度」である。
そういった意味で「英語」と「国語」は本来根本的に異なる存在なのだが、ここにアメリカ文化にある(アメリカ特有の)「コスモポリタニズム」の日本的な影響があると思う。
したがって、日本の英語が「アメリカ英語」に近づくのは、自然であるし、そもそも「英語」は相対的な文化に過ぎないのだから、それで不都合がないのである。
いやなら、従前どおり「役に立たない英語」に埋没するか※、必須科目であることを止めるほかない。せいぜい、TOIECとTOEFLほかの、児童自身に依る自由な選択に委ねるほかない、アメリカの高校受験に於いてまさにそう実施されているように。
すなわち、制度の枠組みがアメリカ(の試験方法)に近づくか、内容(対象)がアメリカ(英語)に近づくかの違いしか見出され得ない。
いつものようにファシストに扇動されたに過ぎない、児童にとってはまったく無駄な—したがって、学習人格権を侵害して、すなわち、児童は「児童」という理由だけで「不妊治療」を施される存在ではなく、いつもどおり児童を犠牲にして恥じない—くだらない騒動は「終わり」である。
※この「役に立たない英語」は実は(特権化された)「国語」の派生言語乃至周辺言語に過ぎない。要は、日本文化の中で語られる「英語」である。