今日のホームルーム

 

こういうことでも

こういうこと(圧力団体の腐敗)とかでもなくて、おそらく、

こういったことに近い感覚なんじゃないか。
ここでも「天皇」をモチーフにしているけれど、それはブリコラージュであって、実際の天皇乃至天皇制とは関係がない。あくまで〈私〉が主題だろうと思う。
つまり、〈私〉が〈私〉からは原理上逃れられないとき、反射的な〈私〉の衝動としてしか現れない〈私〉にも捉えられない〈私〉を〈私〉たらしめている或る質的な事をどう捉えるか―どう慈しむか、という問題意識のことなんだけれど。

  1. 〈私〉は〈私〉から逃れられない
  2. 〈私〉は〈私〉をとらえきれない
  3. 〈私〉は反射的に〈私〉の衝動としてしか現れない

の3つの性質で、〈私〉を認識したときに、3を与える「推し」が尊い、という話だが、つまりは、〈私〉をどう慈しむかという〈私〉の意味論だろうと思う。

ここで、ツイートに戻るのだけれど、僕らの年齢だったら、戦前にあった「村社会の因習」という「論法」を知っているわけだ。これはマルクス主義の一派らしいけれど、要は、「封建社会の打破」が目標とされ、そこには「抑圧的な社会」があったわけだ。
それが、戦後、「カイシャ」に移るわけ。
それが現在は、PTAに代表されるような利益団体に移ったんじゃないかと思うよ。
ただ、それは組織的な動きだ。
若い人たちの関心は、むしろ、自分の属する集団でのふるまい=気の遣い方なんでしょう?

そのときに、「主権」とはそもそも多義的な言葉で、形容的だからどの文脈に属するかを明確にしないとなかなか意味がわからないのだけれど、おそらく、〈私〉の利益が〈私〉に帰属することに関して、〈私〉自身が主体的に主張するときに、公に認められることを、そう呼んでいるんじゃないのかな。これをただの「権利」と呼ぶかどうかなのだけれど、そこに在る「主体」が義務感によって性格づけられるという主張なんでしょう?
ここでは「責任」(量で表現される客観的要素)と「義務」(態度に表現されむとする主観要素)を分けているのだけれど、だとすれば、「言論」というよりも「言動」なのかな、と思わないではないが、要は、或る関係に於いて、言動で表現される主体に対して制圧的な態度を採られるという不満のことなのかな。

「昭和」には「高圧釜」に例えられた組織内の人間関係の重圧—と言っていたけれども、実は、直接的な暴力ががあったし(つまり、当時は暴力が広範に認められていたから、暴力事態を問題視すらできなくて、なんとなく「人間関係ゆえの重圧」と捉えていたわけだ。)、PTAでは、暴力ではないけれど、個々の利益調整のシークエンスの複雑さゆえの負担が義務感を伴って逃れられないとき、それが各「主体」への「重圧」となっていたところ、外部委託することで、義務を担う「主体」からの解放をもたらしたわけだよね。
そういったことが、人間関係一般について主張されているということかなぁ、と思う。

別に同じ組織、団体に属しているわけでもないし、逃れられない人間関係でもない。
敢えて言うなら、同じ「ツイッター」というプラットフォームを共有している(だけの)間柄だけれど、それも「枠組み」と言えばそうだろうと思う。
そこから排除されたならば、喪失感を伴うのも想像できる。

そういったことなんじゃないの?
わかりにくかったかね。。。って内田もよく言っていたけれどさ。
そんなもん、うまく説明できないワシが悪いに決まっとるやないか。
当たり前だよね。


昔はこういったことも言えたんだけれど

困難な成熟

困難な成熟

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この人たちがこういうことを言うから、おかしくなちゃったってのもある。
つまり、戦後、この人たちの世代ほど身勝手な人たちって居なかったから。
うちの親父は、そのひとつ前の世代だからね。びっくりしたって言っていたけれどね。
そのお前らが「成熟」と言うかって話で。
消尽しちゃって、「成熟」なんてなくなっちゃった。
昔なら、そういった言葉の内で、パージされてたんだよ。

「成熟」(モラル)は「発達」(科学)に置き換わっただろうか。
知らない。