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「最高裁が『外国人への生活保護は違法』と判断」は誤情報 過去も繰り返し拡散 | InFact / インファクト

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私が尊敬してやまない藤原さんは、楊井人文氏を評価するのだけれど、私は相当怪しいと思っている。
藤原さんの判断に間違いがあるという指摘ではなくて、マスコミの言説に関しては「読解」できているのだろうと思う。
すなわち、私が言いたいのは、「国語の読解」と「理論上の解説」は異なる、ということだ。
それが端的に現れるのが、以下の文である。

「外国人は保護を求める権利がない」(=行政側は外国人を保護する義務がない)

これは、どの理論上の立場を採るかで異なる(ことが説明されないと意味がない)。
判例/学説/実務は、それぞれ独立した主体であるために、自ずと異なる主張を構成することがある。そうであることが当然であるために、教科書では、裁判例を引くときは、学説上のどの立場に依拠するかを説明する。

  1. 伝統講学的な立場で、反射利益説
  2. 権利説

を採るのは、正反対であり、特に「中間利益」の帰趨に関して帰結が異なる。
要は、「危険負担」の問題だ。民法の基本的教科書で例示される、「がけ崩れの土砂の撤去は、崖の上の住人が負担すべきか、崖の下の住人が負担すべきか」と言った問題で、これは自明でない(フランスと日本の違いに言及される)。政策的な問題である。

さて、氏の解説を見ると、憲法上明記される「国民」の範囲について判示され、解釈上の「人道上の措置」が言及されていない点が指摘される。

面倒くさいので結論から言うと、本質的には、「国民」とは憲法第25条の所謂社会権と呼ばれる「人権」から、国の義務を定めたもので、「人道上の措置」とは、或いは憲法前文であるのか或いは国際法から政策的に採択される、「権利」であるのか「人権」であるのかが、不明である、ということになる(憲法前文に規範性があるのかが問われる)。
これは解釈論であるから、政府解釈としてそのような判断を行っているということであり、これが違憲立法審査で行われた具体的争訟に付随した、裁判所による憲法判断ではないことが本質である。

法解釈は法を構成しないのかが問われており、政府解釈を含めて「法」であるならば、それは「違法」と判断されないのはおかしい。
ここで「反射利益」であるならば、「法」で在る以上、受理しなければならない。
だから、通常は、「判断の合理性」を問い、そこから説明するのである。すなわち、「義務」であっても、給付の義務とまで言えず、受理の義務であって、不合理な「例外」あるべし(したがって、受理しないことが論理的に在り得る)、ということである。
※ここで、給付/受理と分別の対立軸が措定されていることの是非が問われる。
すなわち、「受理の義務」=「給付の義務」ではない、、、、、ことが含意される。これは論理的な説明であって、「読解」的な説明ではないこの違いが氏にはおそらくわかっていない。それならば、「判断の義務」で良いではないか、と短絡すると、裁量になってしまいかねず、義務に含意する規範性が損なわれるのだ。
ここで、「義務」とは「責任」のことかが問われる。「義務」とは主観的要素行為規範である(客観的な能動性である。態度に現れる客観性であるが、結果利益を必ずしも保証しない。だから、行政手続法が、カギになる

さて、最高裁判所は、結局、何を導いたのか。
生活保護は、市町村の事務なのである。
もちろん、このとき、当然、生活保護法に依拠するのであるが、政府解釈があったとしても、それは(違法かどうかが問われる)「法令」を構成するとまでは言えず、「規則」乃至「通達」として、政府からする、行政行為のための法解釈の標準、、として「指示」されるにとどまり、政策判断であり(ため、裁判所としては、言及しない)、その主体は市町村にあるということである(だから、「指示」であって「命令」ではない)。

※訂正。陳謝いたします。「契約」に変わったので、その限りで、外部効果を持つ。

生活保護事務については、平成12年の地方分権一括法の施行により、機関委任事務から法定受託事務に分類され、国の包括的指揮監督権は廃止されたが、是正の指示や代執行といった強い関与が残っており、実質的に地方の裁量は拡大していない。

厚生労働省:第4回生活保護費及び児童扶養手当に関する関係者協議会(第4回資料)

だから、正確に述べるならば、

 憲法の予定しているところでないが、法解釈上の政策判断の余地があり、その合理的範囲に留まる(が、それは、今件の具体的争訟性に鑑みて、裁判所が言及するところではない)

ということである。
要は、「適法」と「違法」の論理的位置を考えたときに、「違法」の反対(余事象、背反的な位置づけ)が「違法ではない」である(同様に「適法」の反対が「適法ではない」である)が、このようなときに、「適法」と「違法ではない」がねじれ位置にあり、その中間利益を含意するということである。

こういうことは「読解」能力では導けないことが、重要です


正確には知りません。
間違っていたら、もうしわけございません。

でも、こうやって考えると、なぜ、生活保護が揉めるのかが、なんとなくわかるでしょう?
要は、通達行政なんだけれど、「通達行政」である以上、立法措置ではない、ということであって、だから、こういう表現と成る。
現場の市町村の負担が重くなる理由が胚胎している、ということ。

裁量も善しあしであって(柔軟に対応できる利点もある。)、「現場で決めね?」ってやっているから、そうなる、ってこと。

砕けた言い方をすると。

生活保護は「出すべき人に出す」べきやろうな。

「出すべき人」とは「日本国籍を持っている人たちの一部」や。

貴方が「一部」に該当するかどうかは、客観的に決めるよ、客観的に決めるから、「出すべき人」に「ださない」なんてことは「ない」よ。

ただ、「日本国籍を持ってない人」については、法文の文言として、明記してないよ。

それは「また、別に(政策で)決めて、措置するよ」。それがダメな理由ってある?

っそれで「決める」から、それから「漏れる」ヒトは、居るやろねぇ、って話。

そこで、反対する人は言えるわけだ。

 なんでもかんでも閣議で決めんのかい!

って。いや、実際、国会で審議したかどうかは、知らない。
そうすると、話が「微妙」になってくるんだよ。
閣議」なら「令」同等だから、外部効果を持つよな。つまり、「法」(法令)を構成する。
じゃ、「違法」じゃねえの?って。説明がねじれてない?って。
ここで、その「具体的争訟性」が、「いや、「国民」かどうかを聞かれたから、答えたんや」と謂えてしまうのであるから、もうちょっと「広い議論」をしないと、意味がないんだよ。


楊井人文氏に関しては、「対抗マスコミ」という「マスコミ」で理解しているので、ニュースのバランスをとるにはよい(コロナ関連とか、医学的な、或いは、統計的な専門知識をバランスよく知るのはちょうどよい)と思っているが、専門的には、まったく信用できないと思っています。それは全マスコミに対する態度と一緒です。
それは仕方がない。それに関しては氏が悪いことがない。

何が問題か。

「ファクトチェック」という語用です。
まるで「真理」を開陳しているかのような語調です。
あくまでも、マスコミに言及されている主観的「事実」(独立して存在する客観的事実ではありません。)の主観性を相対化しているだけです。
これは客観性とは何か、事実とは何か、の問題です。
だから、「ターゲット判断」乃至「イベント再審理」とすべきだと思います。
この場合、「判断」乃至「評価」するのは、「楊井人文」という主体ですから、主観性が語彙となって現れます。