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しまった。叙述から形式論理への自然な繋がりの中で、〈タイプ〉と〈クラス〉が出て来たことを言おうとおもっていたのだった。

それらはラッセルが始めたパラドックスの指摘を解決するために考案されたが、ラッセル・ホワイトヘッドによる〈タイプ〉は主体問題への回答、カントールによる〈クラス〉は実在問題への回答だっただろうと思う。

誰しもが名詞の語尾に(e)sをつけると複数形になることは知っています。ですが、これを正しく使うことができない。やはり文法の力が不足していると言わざるをえません。たとえば同様に、「猫が好き」をI like cat.と言うと「私は猫の肉が好きです」という意味になってしまいます。猫全般を指すにはI like cats.と複数形の名詞を使うという約束があります。

英語をモノにするには「文法を徹底的に」が結局いちばんの近道だった
現代ビジネス(講談社)

ジョージ・ピールの文も、最上級なのに、述語の変化が複数形に対応しているのが、なぜなのか、を、とりあえずは絶対最上級の慣用表現として受け止めたが、構造的な理解もあるはずであるとの思いが捨てがたい(そういう説明をなかなか探し当てられない。そもそも、文法を真正面から論理に沿って説明するものを探し当てられない。文法と論理は対立すること、或いは、文法をすれば「論理的」であることなのだろうか。疑問に感じる※)。
〈クラス〉と理解すると自然で、その場合、実在性を表現上担保するための、上の”cats”の意味合いで複数形なのではないかと思った。ここでは「猫の肉」となっているが、抽象概念あるいは単一概念であるがゆえにwhole概念であるならば、それは主体問題へ近づく。それが「肉」となるのは、宗教的な「受肉」というよりも、”like”の目的(対象)だからだろうと思うが。

※これについては、認知心理学から説明するケンブリッジの”ing”の説明の限界を見て来た。「中間」を意味するにしても、意味がずれてくるのだ。これはおそらく論理的な「平均」である(しかし、論理を排除しているがゆえに、「平均」と説明されない。混乱した説明となっている)。