今日の読書

浄土真宗の東西合同法要が執り行われているところだけれど。

歴史学」というのはそれこそ歴史のある学問のはずだけれど、「近代的学問」のせいか、なぜか「近代国家」を基礎に考える宿痾があるように見え、また、「戦国時代」を考えるにしても、俗 的には、「戦国大名の時代」という英雄史観で見がちなような印象を受ける。

  1. 近代国家史観
  2. 英雄史観

をどう逃れるかで試されるのではないだろうか。

そう考えると、「本願寺」はこの時代の相当の「キーパーソン」で、「戦国大名の時代」と「戦国仏教の時代」が統一されることなく2文脈がそれぞれを紡いで残してゆくんだね。

戦国大名」から見ると、本願寺は「敗北者」なんだけれど、別に淘汰されたわけでもなんでもなく、相変わらず日本最大級の規模を誇る教団である。敢えて言えば、教団乃至蓮如後の指導者の誰も「戦国大名化」せずに、或る意味で、中世的なコンツェルン支配は残している。

戦国を経て何がなくなったかを考えると、「荘園」と、名目のみのやり取りにより生じた多重支配関係がなくなっただろうか?それぞれの寺社と幕府の関係、それぞれの州(クニ)と幕府の関係に「多層的な支配」があったかもしれないが、直接には、統一されたように見える(が、よく知らない)。

武力闘争は、他勢力を、土地と土地に帰属した人の支配から排除するための競争的側面が強かったようだ。

したがって、この「多重な支配」とは、すなわち、「多重なコンツェルン」のことであるから、それが整理されたようだ(あくまで支配地の多重債務が整理(統合)されただけで、コンツェルンが「滅亡」したわけではない)。

戦国前期の最大のキーパーソンは(織田信長以上に)蓮如であり、戦国後期の最大のキーパーソンは(豊臣秀吉以上に)徳川家康であると思う。

織田信長豊臣秀吉も確かに傑物ではあるけれど、信長の事業を考えると、琵琶湖から堺に支配の中心を移した、秀吉の事業を考えると、もちろん「天下統一」の「天下」がそれまでの近畿から日本に移ったことからわかるように日本の武力統一をはじめあまりに多様であるけれども、大阪の支配から朝鮮へ向かったことを考えると、琵琶湖の事業はそもそも「湖賊」(門徒)たちの独擅場だったし、堺は自治領だったこともあるし、大阪城本願寺だったんだよね。中世的なアナーキーを一掃したとも言えるが、この状況で、もっとも躍進したのが本願寺なんだよね。

本願寺は、蓮如が「再興」するまで、要は、今で言う休眠会社で廃業届はまだ出して居ないから登録だけは税務署に残っているよって話で(だから、それに付随する義務が残っているが)、実際活動はしていないような、要は、比叡山に吸収合併されたような状態だったわけで、そこからその「不良資産」を相続した蓮如が、琵琶湖周辺で営業して、支店を増やしていったということがあった。この営業部隊には、階層上は、「武士」と言えるのか、「衆徒・国民」と言うべきか、要は、自発的な武装化された集団もいたから、一種の多角経営で、興福寺の支援を受けつつその支配地の(一種の「営業」と呼んで差し支えないと思うが)「警備活動」(ただし、他勢力の支配地への牽制を含む。)にも余念がない。つまり、二大老舗(比叡山興福寺コンツェルンの均衡の中でうまく泳いでいたのだ。やがて、第三勢力として台頭したと思ったら、なぜか、日本一の規模になっていた。戦国大名の動きから外れるこういう歴史が見落とされやすい。

 

ただし、朝倉は怒りにまかせて右の書状を書いたわけではなく、おそらく経覚と示し合わせていたと思われる。楠葉元次の代官就任に反対する興福寺内部の勢力を黙らせるために強硬策に出たのだろう。

P.135,楠葉元次の越前下向,越前の状況,応仁の乱

天竺人西忍が出てきたりなかなか多士済々であるが、河口荘の話なのに、蓮如が出てこない。なぜだろう。『応仁の乱』第二巻に期待したいところだ。

 

よく秀吉の朝鮮出兵はスペインの動きをにらんだもので、すなわちその文脈では「卓抜した戦略眼」が強調されて、語られるのだが、むしろそれは「中国、朝鮮、南蛮」の新しい「三国」に囚われすぎの狭い見方で、世界の方は、もっとダイナミックで、東南アジアとヨーロッパの勢力の関係が先にあった。

そこにイギリスも居るわけで、徳川家康の大砲は、イギリスから購入したのであって、そもそも戦国を代表する「鉄砲」の弾の方に、タイの鉛が多く使われまた、朝鮮出兵では、とっくに普及していた明の大砲にやられているのである。要は、「戦場」として観た場合、日本と大陸は相当違っていて(だから、互いに「見たこともない」ような勢力と戦っていたのではないかと思料する。また、だから、戦国以前の技術水準でしかなかった「元寇」などは笑止千万である。あまりに近代的な概念である「国力」という言葉が出てきた暁には臍が茶を沸かすのであって、まったく無駄とも思わないが、少なくとも「=効果」でない。この効果的側面が完全に無視されているのである。「対等」への拘りもー賛成するにしても、反対するにしてもー同様である。)、それぞえ独自に発展していた中で、その統合を果たし得たのが、豊臣秀吉よりも、徳川家康ではなかったかと思う次第である。