シンどろろ [メモ]

そろそろ、自分の中で「シンどろろ」が佳境に入って来た。

中世の「アナーキー」は、今で言う、コンツェルンのアナロジーとして理解するとわかりやすいかもしれない(分かりやすいがゆえに間違っているかもしれない)。

コンツェルン - Wikipedia

つまり、よく言われるように墾田永年私財法の成立を起点と考えると、それによって「興福寺コンツェルン」が荘園支配を通じて全国展開されたときに、その中にあって、「経覚ホールディングス(個人の所領※)」が「本願寺」(蓮如山科本願寺が再興される前の、吉崎御坊)を支配して、本願寺本願寺で全国で「本願寺コンツェルン」を形成する。
※「個人(の荘園、資格)」と「寺(の荘園、資格)」の関係もよくわからない。事実の記載は山ほどあるが、それぞれの朝廷から与えられる、幕府から与えられる、寺から与えられる、個人から与えられる、法的「資格」がよくわからない。蓮如は「代官」となったはずだが、蓮光の「代官」であったことと何か違うのか。支配荘園が異なるから、根拠が異なるだけか。相当混乱している。


コンツェルン

  1. 独占価格を形成するために生産から販売までを統制するグループである。
  2. カルテルを基礎にしている(重畳的関係)。

と説明されるとき、荘園支配は、土地の二重支配が可能だったからだ。
それは二重課税で在り、二重の領地分配だった。
それが中世がアナーキーであるところの特徴であると思う。
これが排他的支配に向かうのが近世だったのではないだろうか。

加賀の一向一揆に関して興味深いのは、

  1. 畿内政治の動きと相当程度、連動していること(特に、応仁の乱
  2. 畿内経済が(反対の意味で)反映されていること(畿内の撰銭と加賀・能登の悪銭・古銭の流通。その背景にある小氷河期による米の不作が与えた影響を考える時に、機内では撰銭が返って米貨幣経済を活性化させたところ―撰銭の禁令の2年後に米貨幣に取って代わられる経験則が一般的に観察される―、米貨幣の不足によって銭経済が発展したか―加賀・能登の銭経済に於いては、所謂「グレシャムの法則」が成立しなかったことが観察される)
  3. 蓮如は、興福寺別当だった大乗院の  経覚の支援を受けて、「延暦寺ホールディングス」を抜け(延暦寺の末寺であった本願寺延暦寺に焼かれた。)、興福寺の  荘園の守護職土岐氏?)の代官として、現地へ赴き(もともと吉崎で代官だったのは、本願寺の末寺であった本覚寺の蓮光だった。☆)、山科本願寺に(大谷)本願寺を再興しつつ(加賀から城造り人夫が呼ばれたか。『経厚法印日記』「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」。)、吉崎御坊を拠点として  荘を支配する利益を得ることとなった。
    興福寺の荘園関係と、守護の人名の整理ができていない(ここはあくまで、   を書いている)。
  4. このとき、蓮如はあくまで「学侶」(或いは鎌倉末期の興福寺内の新階級「六方」)だったので、蓮如かから  を受けた所謂(「学侶」の下位に就く)「衆徒」(或いは鎌倉末期の興福寺内の新階級「官符衆徒(官務衆徒)」)の経覚が実働を担って、他の勢力と争った。経覚が(武士ならぬ)武装した僧兵なのだが、出自が近江の堅田であり、銭経済に強かったのではないか(→寺内町の発展)。
  5. 永享6年(1434年)に前年に続き再度興福寺別当の辞任を将軍義敎に申し出ているが、8月に、筒井覚順(乾脇党。南北朝時代にあって、北朝武家・幕府方の幕府方。)と越智維通(散在—乾脇ほか4党に参加しない武士の―党。南北朝時代にあって、南朝方—興福寺自体は武家方。大乗院国民。源姓)の争いがあって、野伏(軽装の農民兵)が、筒井氏に3乃至4千人、越智氏に2万人も参加している。これが加賀の一向一揆(20万人ともいわれる。)の約50年前の話である。
    呉座勇一『応仁の乱』P15~P42「第一章畿内の火薬庫、大和」
  6. 加害の一向一揆の特徴は、多様な自治が成立していた当時のその自治の成立にあるのではなく、むしろ、例えば堺の自治と異なり、最後まで徹底的に抗戦したことにあるようだ(cf.島原・天草の乱)。

武士の支配の前に、僧兵の支配があり、戦国大名の成立の前に、一向一揆があった。
全国規模で、多様な主体が複雑な関係を構築しながら、状況が進展してゆくので、追いきれずに、基礎的なことさえ混乱してしまう。


ここでも「荘園支配」に関して、①支配系統の確認、②進捗管理の確認、③要素系統の確認をテーブル、マップ、ネットワーク構成(図)に落とし込まないとほとんどわからない。

荘園がごっちゃになる。
歴史の叙述において、プロジェクト管理の手法が根付いていない。
これはかなり根気のいる作業で、迷う。

「寺」にしろ、「御坊」にしろ、①城であること、②行政庁であることをもうちょっとクローズアップして欲しいね。とにかく、経済的な発展期でもあるから、行政需要ってあったと思うんだよね。で、やっぱり、蓮如も、経覚を従えたある種の「武士の棟梁」だったということ。

荘園と本末体制を通じた「興福寺コンツェルン」と「延暦寺コンツェルン」が神社も巻き込んで対立する中で、或いは戦国大名が生まれ、或いは本願寺があらためて成立したという歴史の流れにあって、加賀の一向一揆が果たした役割(と加賀についに戦国大名が生まれなかった理由)がある(港湾支配と鉱山開発。能登戦国大名化※)。

※畠山氏はメジャーな家系で、あまりにメジャー過ぎて、源姓系と平姓系の両系統あるのだけれど、能登畠山氏は平姓系だという。

畠山氏 - Wikipedia

越智氏は源姓だったか。