こんな本が19世紀(戦前)にあったらしい。

大鏡増鏡選釋 , 種村宗八 講述 , 早稲田大學出版部 , [18--] - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

—仏教で嫉妬はどう説明される

仏教において、嫉妬はしばしば「瞋恚(しんに)」と呼ばれ、負の感情や煩悩の一つとして説明されます。仏教の教義において、嫉妬は自己中心的な感情であり、他者の成功や幸福を羨むことから生じるとされています。嫉妬は、個人の心を乱し、他者との調和や幸福を妨げると考えられています。

以下は、仏教における嫉妬の説明と対処方法に関する一般的な観点です:

  1. 煩悩の一つ: 仏教では、嫉妬は「五つの煩悩」(貪欲、憎しみ、愚痴、疑念、嫉妬)の一つとされています。これらの煩悩は、人々が苦しみや不幸を経験する原因とされ、仏教修行の目的はこれらの煩悩を克服し、心の平和と悟りを得ることです。

  2. 認識と対処: 仏教は、嫉妬を認識し、その感情に気づくことを奨励します。嫉妬が生じたとき、その感情を客観的に観察し、その原因や影響を理解することが大切です。この認識によって、嫉妬を制御し、克服するステップを踏むことができます。

  3. 無私の心の培養: 仏教では、嫉妬の対処策として「無私」の心を培うことが重要視されます。無私の心は他者の幸福や成功を喜び、自己中心的な欲望を抑えることを意味します。仏教の教えに従い、他者に対する思いやりと慈悲心を発展させることで、嫉妬を減少させることができます。

  4. 修行と瞑想: 仏教の修行や瞑想は、心の浄化と感情の調整に役立ちます。嫉妬を乗り越えるために、瞑想を通じて心を安定させ、感情の平静を維持する練習を行うことが勧められます。

仏教の立場から見ると、嫉妬は個人の苦しみや不幸の原因であり、心の平和と幸福を追求するために克服されるべき感情とされています。煩悩を理解し、心の浄化と修行を通じて嫉妬を減少させることが、仏教の目指す目標の一部です。


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三毒 - Wikipedia

objecthub.keio.ac.jp

かわったことと言えば、仏教から説明されなくなったことか。
そして、小谷野は、階級(或いは、文学界)が好きなのだ(だから、やたら、「差別」としての「天皇」に拘る—いや、本当は、「天皇主義者」という並んで立つ主体に恐怖している。それは文学上のフィクションであるが。つまり、社会は、彼らが希望している通りに、主体に極端に単純化して見ていないのだ。だから、小谷野が、いくら「なぜ」を問うても文学的主題から離れることはない、それそれでただの拘りなので仕方がないが、文学者は往々にそれがオピニオンであると勘違いするから不思議なこととなる。それはオピニオンではなくナラティブである。ナラティブにもオピニオンの側面があったとしても、「文学」という枠内の処理である)。

もちろん、紫式部は、「小説」が生まれる前の人なので、(小説、政治文書、思想書、歴史書が)混然一体となっている。
着目すべきは、紫式部は、中世へのまさに過渡期の人だったことだ。


いや、私は別に「仏教推し」ではないですよ。
むしろ、身近なことで、浄土真宗やめて、もう無宗教でイイかなと思い始めている。葬式仏教として合理化されていることを大きく評価していたし、世代が世代だけに、宗教被害に遭わないセキュリティーとして、形骸を利用していたのだが、何か別にどうでもよくなってきた。というのは、人間関係に、いや宗教がらみではなく、宗教によって培われてきた今は無自覚な人間関係の形成の仕方に限界を感じているからだ。

自分は所詮近代人であることを嫌と言うほど痛感している。
別に、左翼思想ではない。

要は、上杉謙信を「軍神」たらしめたのは「機動性」と言われているが、それは別に紀州馬をサラブレットに乗り換えたのではない、ということだ。

意思伝達を同期させることで「作戦行動」が採れるようになったことが、集団行動の画期をもたらした。隣の者どうしで一緒にワーッと(見かけ上)一斉に攻め上がっても、逃げ足も早いだけなのだ。

すなわち、それまでの1対1の人間関係を越えて、1対多の近世的関係へ移行するだけで、戦国最強となれたのだ。1対1の無限の連鎖は、商い(生活金融)には有効だったかもしれない。しかし、軍事には、弱かったのだ。

このとき、一向一揆は「軍神」に負けた。
それにうんざりしてしまったのだ。
そこでは無自覚に、ごく自然と、ハラスメント(抑圧)が蔓延るからだ。
社会に仏教が不要だと言っているのではない。
ただ、私は自然権近代法の方を選びますよ。当たり前でしょう。

現に私は、無理強いで、身体がバラバラになりそうです。
言い訳が許される限り、何度でも、人を犠牲にして恥じないんです。精神の痛痒を感じないから。違う人たちであることがわかったからなんです。

通勤に2時間かかるなら、2時間早く起きろってさ。
帰りにも2時間かかるんだけれどね。
それから「生活」がまっているんだよ、冬支度の洗濯の「乾かなさ」と。
つまり、それだけで、時間的のみならず金銭的負荷がかかっているから、(リストラ=給与ゼロまでの、段階的)減給人事なんだよ。
今からは、すでに非正規雇用へのレールが敷かれている。
その後は、解雇ですよ。もちろん「自主退職」でのね。驚くほどの形式主義ですから。
(普通の感覚なら、ただの「強要」じゃないかね?狂っているんだよ、そういう連中はね)。そのための「限界事例」の一手はさく裂しました(彼らの中では完璧な「ロジック」です。なにしろ、それが「公平」ですから※)。もう既定路線でしょう。

※これはもう本当に何度言ってもわからないようで、「標準」という(抽象的な)考え方が採れないのと、そもそもの問題として間違いを前提としている事実を勘定に入れられないから混乱するようです。短絡的な(見かけ上の)形式操作で済ませて十分納得しているようです。しかし、それは、誤りです。

だから、ハラスメント法制の施行って、誇張でも何でもなく社会を逆転させる、画期的なことだったんだよな。納得いかなくても従うしかない。ただ、それがまだ、浸透しきっていないようですが。文化は人に付いて回りますからね。だって、そういう風に育ってきているんだから。

☟地下牢で見せかけの公平を好演して人気者となったオオツキ

異郷訪問譚 - Wikipedia