疲れがピークだ。

本書は社会制度から自由などの基本的概念、日常の感情世界にいたるまで、不定期労働者が創生される土壌を人類学する基本図書である。

へー、それは興味深いと思っていたのだけれど、

なぜ空飛ぶ自動車はまだないのか?かつて人類が夢見た「空飛ぶ自動車」をめぐる科学技術は、ひるがえって人間の内面を規制する「マネジメント(=官僚制)」を生み出した!新自由主義が自明のものとなった今日、それもまた空気と化している。『負債論』の著者グレーバーが、その無意識の現代性に切り込む画期的な文明批評!

あぁと思ったが、

いろいろと考えさせるが、一言で言うと、仏教を無視しているんだよね。

なんでそういうかと言うと、日本の民主主義が、もちろん明治に始まるんだけれど、当然習合化の当初は、新知識がリードしたんだけれど、習合が完成に向かうにつれて、本体の特徴が色濃くなっていったからなんだね。

その本体が仏教と言いたいところだが、そもそも「日本仏教」が習合的以外の何物でもないから、なんと言えばよいのか。

統帥綱領

統帥綱領

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みんなねぇ、「権力」が好きだから、こっち見ちゃうんだけれど(実際に市販されている)。こっちじゃないんだなぁ。「参謀要諦」(『』じゃない、正式名称を忘れた。)の方なんだよ。まったく違うと思います。

公開史料目録 - 防衛省防衛研究所

私が知る限りでは、市販されていません。

統治面からもっとも仏教に執心したのが、旧帝国陸軍だったんだ。
帝国陸軍って、民主的な組織なんだよ。その民主主義って選挙じゃないだけなんだよ(いや、旧帝国陸軍は、選挙も利用した—内軍調和である)。ここでいう「選挙」はそこでいう「科学」に近づくよ。
だからむーんってなる。

東條英機が最後浄土真宗に帰依したのは、偶然かなぁと思うよ。

軍が解体されて、というか、私の記憶では、「第三次世界大戦を起こしかねない男」辻政信が岸伸介(アメリカ)に敗れて(その観点からは「学生運動」などはただのフェイクに過ぎない。)、可能性として中国に拉致されて行方不明になった後は、いよいよボランティアが(かつての軍に代わって)民主主義の一方の役割を担うようになったのが、ひとつの「戦後」ではないかと思う。

これが(戦後)社会教育の経緯なのだが、背景に、ソ連型の「職能代表」の考え方がある。日本的には「産業公民館」後退ののちの(技術と資本の関係からやがて農協に吸収された)、「人格」を基礎とした社会構成主義である。これがなぜ「人格」かというと、「職能代表」を構成するための広範な産業基盤を欠いていたためという実に素朴な、そして、明治以来の伝統的な理由であった(cf.成人学校等による、民主主義教育。普通選挙=民主主義という戦後の民主主義観からは見落とされがちだが、熱心に民主主義教育が行われた時期である)。代わりに「ボランティア団体」が充てられたのである(ただし、これは重要なことだが、「町内会」を除く)。

すなわち、「地域代表」を選ぶ「選挙民主主義」の補完制度としての、(ソビエト型「職能代表」を選ぶ代わりの)「人格代表」を選ぶ「動員民主主義」(「参加民主主義」の方が受け取る感覚が近いが、選挙には「参加」しないのかわからなくなるので区別した。)が始まったのであった。
そしてそれは戦前の(「新原理」として定義された)「愛国※」とも反射的である。
※敢えて「新しい」と強調されたのは、おそらく、維新の原動力となった攘夷(後の自由民権運動)と区別している(島崎藤村に対する夏目漱石とその弟子鈴木三重吉の態度を見ると、明治より前に生まれた者にとっては、「自由民権運動」は維新と関係して切迫なニュアンスを含んでいたらしい。鈴木三重吉志賀直哉は5カ月違いで志賀が若い)。開国派の流れを汲んで、大陸型の啓蒙である—別に、英米に「愛国」がないわけではない。上杉がドイツにしか行かなかっただけである)。

「民主主義」というのは、なかなか一筋縄で行かないのだった。


そこで『負債論』に戻ると、

  • 人間の存在自体が一つの負債

は、社会(一種の団体)加入問題だろうと思う。つまり、余所者が社会の一員として「認められる」とは何か。「自己投棄」「自己投機」の問題。これは帳票的には、福祉乃至「贈与」なんだけれど、動機(主体)としては、投棄乃至投機だろうと思う。
その点で、帳票(経営)に偏っており(反法学的)、負債論=簿記論なんだよね。

「心の計算」を前史に持つがゆえに、(中国からの新しい習合仏教である「浄土教」―のリバイバルーがもたらされたことによる)「日本式複式簿記」も、イタリア、中国と並んで—習合的だからこそ、中国とは別に※—、ありうる。

浄土教による心の計算が、単に日々の善行を数え上げることに終始したケースもあった。

  • 『各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて』の原理が適応されてしかるべき社交性の原材料。

そして、これに、本当に苦しめられる。
なぜなら、これは「疲労」を 計算に入れていない 、、、、、、、、、 からだ。これが「心の計算」の盲点である。高知能でも高疲労体質、しかし、表面上はわからない—疲労を感じにくい体質は「ある」からだ。

これが現在の新しい「障碍」である( マスゴミ 、、、、、 政治用語である「障害」ではない)。「障碍」に拘る切実な理由があるのだ。この身体(疲労)と脳(発達)の科学が新しい「人格」問題を惹起している一方である。もう一方はトランスジェンダーである。古くて新しい問題が「大人子ども」問題であって、これにはギリガン主義が男女問題から一定の解答を与えたはずだが、マルクス主義となかなか縁が切れない。

帝国陸軍研究は、戦後民主主義に照らして、まだまだ新しい知見を準備しているのだ。そしてそれは仏教研究でもある。

仏教は熱心に研究されている分野のひとつであると思うが、なんだろう、「自由主義神学」があるように「自由主義教学」ってあるのだろうか?

検索したら立命館大学が上位に提示されたけれど、「自由」と「民主主義」である。

自由主義神学 - Wikipedia

求めているのは仏教教育と離れた、仏教の与えた広範な社会的影響の研究である。
いや、実践じゃなく、分析ね。