「モンテスキューはフランス 絶対王政に批判的だった」

三権分立」はアメリカに始まる制度です。これは政治学の常識です。

これは法学系の陥穽で、小学生は小学生なりの、高校生は高校生なりの、大学生は大学生なりの「理解できる知識」としてまとめられています。だから、繋がってこない人も出て、かつて東大生が「教わってきたことと違う」と絶望して事件を起こしたことがありましたね。

  1. 小学生「日本は三権分立です」
  2. 高校生「モンテスキュー三権分立を主張しました」
  3. 大学生「・・・」

そもそもアメリカ独立革命の扱いが高校生のレベルでは小さすぎて、フランス革命が重視されすぎています。アメリカの独立革命フランス革命は密接なかかわりがあって、独立革命の輸入を企図し(失敗し)た側面がうかがえるものです。

その逆説的な理解が、モンテスキューの過大な評価につながっていると思います。
政治学上は、もちろん当時の知識人として評価されますが、革命の観点からはほとんど評価されません。これは民主主義に関する「(ギリシャのひとつのポリスであった)アテネ」くらいの地位と同等です。シンボリックな、歴史物語を憧憬する意味合いが強いと思います。その特段優れてもいなかった—つまり、このようなバランスを期すアイデアは独創的でもなく古典的で、しかし身分制を念頭にそれを新階級が勃興した当時のフランス社会—すなわち、これが自由主義と関係するわけですが—にあらためてあて当てはめたことが評価されるだけの(つまり、大学生でも初学者だと或るいは面食らうと思いますが、モンテスキューが目的としたのは政治的妥協を通じた貴族身分の擁護で☟、敢えて言えば、むしろ「(古典解釈に関して)日和見主義」への評価に近いニュアンスを感じさせる)—アイデアを「再利用」(援用)したアメリカに近代的意義を見出すことが、学習としては、正当な理解です(反対から言うと、アメリカのおかげで、モンテスキューは再評価されることとなりました。「再評価」が鍵で、このとき、意味が読み替えられています)。

したがって、「三権分立」はアメリカ独立革命を経た民主主義の制度です(この後、アメリカでは、民主主義を巡る議論が起こってきます。共和主義とアメリカの政治文脈における「民主主義」です)。

近世になって自由主義リベラリズム)が広まった啓蒙時代や市民革命の頃においても財産で参政権を制限したり(制限選挙)、また女性や奴隷などに参政権が与えられないのが普通であった。小林正弥によれば「リベラリズムの『自由』は国家からの非干渉という消極的自由であるのに対し、共和主義の『自由』は政治参加の自由であり、自治の自由なのである」[3]とされるが、裏返せば「公共性」の実現を目的とする共和主義において「参政権」とは自治の自由、積極的自由を行使できる者のみに限られた権利と捉えられたのである。

共和主義 - Wikipedia


(「小1の壁」「中1の壁」と同じような)「大1の壁」を超えると、「あぁ、そうやっては、同じアイデアを使いまわしているんだな」と素直に受け入れられるようになります。そういう観点からは、アメリカのやったことも、モンテスキューが主張したことも変わりはないが、「三権分立」はあくまで近代の制度ですから、アメリカに始まる制度です。

☟「モンテスキューはフランス 絶対王政 、、、、 に批判的だった」(なお、付点は引用者)

www.irohabook.com

そりゃ、そうでしょ。


なるほど。勉強になった

www.jstage.jst.go.jp

アメリカ合衆国の大統領が「チェアマン」と呼ばれた理由にも繋がってゆく。

▶高校生向けの平易な説明(学習者=概念獲得を志す者への対立構造の提示)

ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約説(自然状態と自然権など)をざっくりわかりやすく解説|高校倫理 - Irohabook

▶大学生向けの端的な説明(学習者=立論を志す者への焦点の提供)

個人の自由と権利を守るという同じ目的を持ちながら、ホッブスとロックの思想がここまで違うのは、哲学者と思想家の違いによるのでしょうか?

そして、大学院生になると、上のような論考が可能となるようだ(修論でトピックごとにまとめたものを、博論のテーマへ繋げてゆくらしいが、知らない)。

 

見方にもよるが、これくらい鮮やかに異なると感慨深い。
この3人の違いは難しいんだよね。言っている内容以上に、違いの理解が難しい。
だから、反対に、より平易に説明したくなる。
それを、高校生から大学生へ、大学生から大学院生へと、手続き的に理解を深めてゆく過程がうかがえると思う※。

※高校生の政治・倫理の教科書を確認していないが、ここでは、仮に同じ文言で説明がされていても、教育意図が異なることを含めることができると考える。すなわち、「〇〇革命時の思想家」と説明することに関してである。同じ文言を聞いても「それもう知っているよ」と短絡できない。

余談だが、17世紀イギリス詩人ミルトンの『失楽園』(ユリウス暦で1667年らしい。)が出たら、19世紀フランス詩人ボードレール悪の華』(1857年)が出るだろうと。『悪の華』との題名にははじめ『冥府』を予定していたらしい。


「科学」もプラグマティズムによるアメリカニズムから興味深いが(cf.ウィリアム・ジェームズ)それはさておき。

そうすると、「社会契約」とは(約因から逸れる)「裸の合意」なんじゃないかと話が発展しやすい(本質的に贈与—的な何か—であるか)。
これは宣誓の意義を罰則の有無から捉え直す契機となる。

すなわち、日本国憲法である。

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