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ならば、Black & Asian Live Matterもまた可能でしょうか。
そうではないのでしょう。
それぞれの存在がそれぞれ固有の社会的文脈で定義づけられる。
Blackという実在は他人種等と付加的な存在ではない。
水50gとみかん5個を足すとどれだけでしょうと云われて、架空の存在単位Sを用いて55Sと数得ることができない。黒人1人とアジア人1人で足して2人だから、みんな同じ名前だけの存在というわけにはゆかない。
即ち、Black + Asian live matter という「足し算(論理和)」は成立しない。
しかし、Blackも内部に他の社会文脈を含意するので「掛け算(論理積)」は成立する。

なんとなくわかるんです。
「みんな違ってみんないい」というとき、何が問題でしょうか。
問題が背景化されて、「負荷のない個」による相互主義によって、「みんなおなじ(平等)」を指向するからです。「違う」というときそこに在ったのは統合から排除される現実の被害だったはずです。だから、統合の再認識(排除されているのは気のせい)が目指されるのではなく、救済手段を講じるときのコストが求められたはずだからです。個人の責めに帰さない負荷を個人の自由(選択)に前置しないで済む措置を講ずるとき、それを社会が再統合するための努力と呼ぶはずだからです。みんな違ってそれぞれに、そうしてみんなが同じように努力すれば済む問題ではないのです。固有の問題に社会が着目する。「固有」とは存在であり、言葉(概念)であり、関係する事実認識です。
クイアと呼ばれる人たちからそれが発せられるのは納得できる話です。
「趣味」「癖」「嗜好」ゆえの「変人」「不審者」と言われてきたでしょうか。
その言葉を持たなければ別の(誰かにとって)「健全」な言葉で説明されてしまう。
言葉はアンカーです。現に問題が存在する限り、そこに問題意識がとどまり続けなければならない。
間違って理解していたら申し訳ありません。
クィア - Wikipedia

自分も安易に、BLACKを消していた不明を恥じる。
👇someoneとしていたことをblackに戻した

markovproperty.hatenadiary.com

 


そうだったか。
ただ犯罪は犯罪であって、「犯罪」である限り害悪であるので、危害を与える行為や収奪行為は止めてもらいたい。