天皇家と数学者

余談であるが、「天皇家」は実在乃至存在するか。

おそらく明治期の山林財産獲得とその相続を以て「天皇家」と呼ばれる実態が整理されたのだろうと思う。

ちなみに、「古文辞学」のような方法を以て考察するときには、「天皇家」は実在しないらしい。

だから、これは社会的実態の話である。
そして「天皇制」はどこまでも近代制度の内部にあって、ポストキリスト教社会たるモダン社会の「無限」(とその裏にある「分割」)に関わって、定義される。
即ち、近代国家(には稠密性を)、近代人には帰属性を求めるのである。アンセルムス由来の議論に従うならば、「国家こそが最も大きい」※。近代は、技術からではなく、技術とともにあって、このような神に替わって為す抽象的事実の認識の広まりから、始まる。

ところで、先日亡くなった著名な文化人類学者が政治学的には「?」なのも、同じ理由による。批判的な態度を示すならば、そうではないよ、と言わなければならない。
即ち、「自由な意思に基づく無国籍の選択」である。

※機関説はこのひとつの帰結である(が美濃部は厳密には考えられていないー素朴実在論者に留まるーし、そもそもイェリネックを信奉しつつも条件を適度に緩めて好い加減に技術的(政治的に勝利するため)に導入しただけのように見える。かつての仏教伝来がそうであったように。そうして上杉慎吉のような現にイェリネックの薫陶を受けた学者との対立が始まる)。

そのうち、イェリネックチョムスキーの近親性(というとだめなのかな。要は、特有な発想の近さ)を明らかにできたら面白い。
👇イェリネックチョムスキー・・・あと誰だろう?

 


なぜ技術者たちが「電子庁」を創造できないか。
イングランド人たちの経験を尊重する技術者たる能力に不足はないが、スコットランド人たちの人文知の不足である。
「新生活様式」は経済力が生き方を変えた「黄金のヴィクトリア朝」に起こったのである。
当たり前である。2倍生きられるようになったのだから、後半に訪れるはずの未だ意味付けられていない人生の空白は新しい概念で埋められなければならない。

今「新生活様式」が起こるとすれば、戸籍の個人登録化に伴って財産形成の認識が改められることによって(諸々の相補的な社会制度が変更されることによって)しか考えにくい。