今年のきのこ賞を差し上げます。素晴らしいの一言。 

吉野作造と上杉愼吉―日独戦争から大正デモクラシーへ―
 

とにかく姿勢がよい。最近の歴史学の潮流に乗って、「もういい加減なことを言うのやめようぜ」ってこと。「そんな単純な話じゃないでしょうに」「資料にまず当たろうぜ」ってこと。上杉と美濃部の天皇主権論争まで立ち読みしたけれど、とにかく面白い。というのは、自分が本当はこうなんじゃないの?と思っていたことに答えてくれているからだ。そのうえで、誤っていたことや知らないことがあって勉強になった。

まず、上杉の学歴だが、四中入学時は欠席もあってぱっとしなかったが、卒業は4番であったこと。高校時代はさらにぱっとせず、ほぼ埋没していたような印象であること。
ただ、当初はチフスに罹患して出遅れたが、大学に入学してからは俊才ぶりを発揮したこと。休み明けの最初の試験で努力の甲斐があって主席を採って、それが穂積に認められたこと。試験の提出が早いなど、周囲をそわそわさせて遂には「四高生」が「一高生」に殴られたこと。卒業時は初の卒業試験に抗議の気持ちで泥酔してやはり!3番だったこと(官報の記載が正しい!朝日の「主席」の説明が間違っている)。
留学は前田の殿様におカネを出してもらった私費留学だったこと。イェリネックに師事して最後は気にいられて「いつ戻ってくるんだ」と声を変えられたこと※ー上杉はよく可愛がられるのだろうか。イェリネックの学説はやはり玉虫色だったこと。それもあって美濃部の学説はご都合主義だったこと。なにより興味深かったのは美濃部が「論理的」であることを自認して、論争好きだったことーこれがさながら現代のネット論争と同じ様子なこと(相手が「非論理的」と非難する)、ところが『天皇即ち国家なり』は「非論理的」というよりも、非現実的であり、上杉の思潮傾向から言えば、観念的であり、直ちにそれが非論理的であることを帰結しないことーこのような美濃部の「論理性」もまさに現代的な、俗流の論理であること。そして美濃部の決め台詞は「それが定説」であってほとんど(詭弁で)説得力を持たないこと。上杉はドイツの「国家主権」を民主主主義と「正しく」理解していた一方で、美濃部は理解できていなかったことーつまり、ドイツ人の口調を見抜けていなかった。日本の現代的な民主主義はさながら、「上杉が突き、北が捏ねし『天皇(シンボル)制国民主権』、座りしママに食うはアメリカ」といった様子である。上杉が天皇を極めて観念的に捉えていたことが他の論者と異なる特徴で、実は天皇の私権については厳密に制限的に理解していたこと。それでいてヨーロッパの政治状況をつぶさに見て、リーダー像を見出していたこと。それをひとことでいうと、日本の官尊民卑、ドイツの官尊民尊で、官民の対立を憂えていたこと。
(ただし、国体/政体論争は、北一輝が白眉であること。)

とにかく、この本を書く動機が動機だから、『どう上杉が言ったか』については詳細に文献にあたって信頼できる。「伝」としてはこれ以上は難しいのではなかろうか。
ならば、あとは理論的な『なにを上杉は言ったか』である。上杉と穂積が実は一心同体ではなく、(当初の上杉が穂積に批判的だったころの話じゃなく)学説上も意外なほど違いがあること。上杉はちょっと他に見当たらないくらい、抽象的に考える特徴があるそれでいて実務を詳細に観察していること(文中ではそれにもふれていて『実験的、実証的、  的』と言っているが、要は、抽象理論と具現性を厳密に分けて考えられていた)。

※これは、ヒルベルトに師事した高木貞治と同じでちょっと驚いた。 

高木貞治 近代日本数学の父 (岩波新書)

高木貞治 近代日本数学の父 (岩波新書)

  • 作者:高瀬 正仁
  • 発売日: 2010/12/18
  • メディア: 新書
 

 

高木 貞治 1875年(明治8年)4月21日 - 1960年(昭和35年)2月28日
上杉 慎吉 1878年明治11年)8月18日 - 1929年(昭和4年)4月7日(51歳没)
同年代なんだね。