www.youtube.com

こういうことだそうです。しかし、さらに、、、

@user-sm3py9nq8w
9 時間前
この話題が出る度に感じるのが、0.999…=1に疑問を持つ人はε-N論法の論理(任意の精度で近似できること)が理解できないというよりも、「そもそも何故ε-N論法をそのように定義していいのか」って部分で引っかかってるんじゃないかと。 ε-N論法で任意の正の実数εより小さくできることを以て0と等しいと定義していいのは、アルキメデス性(を含む実数の定義)により無限小が実数体の中に存在しないことが保証されているからであり、そのことを明確に説明しないと恐らく納得してもらえない。

返信
 これは数の実在性と数の認識性を敢えてごっちゃにすることで「納得」しています。実在として厳密に考えると、「実無限小」を認める数学ではないでしょうか。
 実際に、2通りの数学があるのですから、やはり難問だろうと思います。
 数学基礎論の歴史の中で「数学的認識論」を明言したのは、ヒルベルトということです。ヒルベルトの議論の枠組みの中でゲーデルの不完全定理があったのではなかったでしょうか。

 

と返そうと思ったが、専門的に修めていない私にその資格はない。
失礼なのでやめておいた。


2通りの数学がある—ニュートン流じゃなく、ライプニッツ流の数学※があることを知らい人が居るかもしれないので、無駄な議論は避けたい。


(『数学100の発見』より)

※若干、混乱するのは、「微分の発見者はニュートンライプニッツで、現行の方法はライプニッツに依拠している」という説明が一般的になされるから、「実無限小」を認める数学の意義が見えなくなる。

ネットには、ちゃんと、それで計算して説明している人も居るのにね。
リンク貼れればいいけれど。どこだったか。
だから、数学科とか進学したら、別に普通に知っていそうな気がしないでもないが、どうなのだろう?行っていないのでわからない。

実は、「無限小」を認めるのは、数学でほとんど議論されないが、哲学では最近まで議論されていた。実は、ウィトゲンシュタインである。ウェトゲンシュタインの哲学的発見は、実はあまりなく、真理値表くらいなのだが(これも独創というよりも、時代の要請で、先行者にクリスティ―ン・ラッド=フランクリンが居る。要は、アリストテレスの論理学の完成乃至克服の問題だったのだ。ギリシャ哲学はつい最近まで、いや、極限概念に至ってなお、強い影響を残しているのだった。ヒルベルトの数学革命の本質もここにある。数学の再「ギリシャ数学」化— 流の計算主義批判からの道具としての数学を従とする論理主義—及びその克服である)、「ギリシャ病」のフィーバーのさなか、ライプニッツーカントのドイツ哲学の系譜を引き継いだのが、ウィトゲンシュタインであり、それを哲学の本流とするのは、実は裏に、ギリシャ哲学がある

ドイツ人は、そういった糊塗が、非常に上手い。
そして、なぜか、これに限っては、イギリス人が遠慮している。それくらい、ギリシャ哲学は、(キリスト教と並んで)ヨーロッパにおいて根幹を為していると謂えると思う。要は、ルネサンスの意義である(ヘブライズムとヘラニズムとゲルマニズムの調和)。

[比較]アプリオリな総合判断と超越論的演繹(直観と純粋悟性概念—純粋悟性概念に見るアリストテレス論理学に基づく判断表とそれに基づくカテゴリー)


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〈私〉という「主体」の獲得と「述語」革命(「主語」の発明;神が唯一の主体のときは、述語は主体に従属的な形容概念に過ぎなかったが、〈私〉は—別の—主語を述語に従属させる)。

単一性(量;単称的)/実在性(質;肯定的)/存在性(様相;主張的)/実体性(関係;定言的)のカテゴリー(判断表)の4分類が重要である。

特に、総体性(量;全称的)と制限性(質;無限的)が存在性に関して可能性(様相;問題的)が問われるのか、実体性に関して原因性(関係;仮言的)が問われるかで「矛盾」となる(「すべて」を決める「無限」と「矛盾」の認識)。

Power of Atorny って普通に委任状

news.yahoo.co.jp


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CRP(振込代理権)を使った場合、「横領罪」に当たるのか?ということろで、

  1. 「占有」について
  2. 「客体」について

の2点の確認が居る。

ちなみに、日本の刑法の場合、「窃盗罪」と「横領罪」の違いは、自己占有物か他人占有物かになるのであって、このとき単に他人の委託を受けて損害を与えた場合に横領罪になるかは、実は横領罪の一般的な規定である「背任罪」(刑法第247条。横領罪は「背任罪に対して特別罪の地位にある。」コンメンタール刑法p.307)と区別する必要がある。「学説としては、両罪を行為の客体によって区別し、横領罪は財物に対するものであり、背任罪は財物以外の財産上の利益に対するものであるという見解が有力であり(中略)しかし、判例の基本的傾向は物の処分が自己の計算ないし名義でなされた場合に横領罪の成立を認め、本人の計算ないし名義でなされた場合に背任罪を認めている(最判昭33.10.10刑集12巻14号3246頁のほか、以下略)」とコンメンタール刑法P.307に説明がある。

小切手振出を委ねられた者は(他人の金銭が入っている)預金を占有しているということになります。

【横領罪の基本(条文と占有・他人性の解釈・判断基準)】 | 一般的な刑法犯 | 東京・埼玉の理系弁護士

小切手とは|振出し・受取りの注意点・管理方法|freee税理士検索

厳密には、銀行の送金と小切手の振出は違うような気もするが、かなえ先生は、アメリカの友人に確認したそうだから、やはり横領罪に抵触するのかね。

 


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さすがに詳しい。

このお二人の専門家、実務家の説明でだいたい説明できているけれど、日本の刑法でも罰せられる可能性があるってことを指摘できたのは、若狭さん。

https://www.mhlw.go.jp/stf/covid-19/certificate.html

PОAって、そんな難しい話ではなく、委任状だからね。
上掲は、ネットで検索したもので、参考にしたもののひとつだけれど。
私も、コロナ関連で、外国人向けに原案作って、ALTに修正してもらったよ。

markovproperty.hatenadiary.com

俺って本当に評価されないよね。
システムのこと知らねえ奴を相手にするのが大変だったよ。

 

公定力と取消訴訟の排他的管轄

「一行報道」くらいしてもイイとは思うけれど、そんなに大した話ではない。

要は、前例があって、それに倣った形式規範上の話であって。

日本は法源として判例法を採らないのだけれど、前例が羈束的に働くことが法の常識である。
たった、それだけの、ベルトコンベアーに乗った話に過ぎない。

ただ、これを政治的に云々する、要は、小池行政批判に使うのは「アリ」だとは思う。
行政学上は、「明白の原則※」に抵触する可能性があって、すぐに覆されるような決定は、行政に原則的に求められる安定性を損なって弊害がある。「法による行政」をくすぐる話ではある。

※明白に違法な決定は無効である。原理的には手続きを経ることなく無効であるが、一般的に私法ならば確認訴訟という手ある、今件のような行政事件の場合、管理物なので、実際の問題として、訴訟手続きを経なければ、行政の本源的に有する「公定力」の利益が消尽しない。

(つづき)抗告訴訟取消訴訟)等の手続によって取り消されない限り、原則として他の訴訟の先決問題においてその訴訟の受訴裁判所を拘束し、当該受訴裁判所は、審理の過程でこの行政行為が違法であるという判断を得たとしても、これを有効なものとして扱わなければならないことになるのである」(C-Book 行政法<第2版> (PROVIDENCEシリーズ))

要は、正式に取り消されなければ、取り消されるまで有効であるから、順番を無視して「いきなりYに返還を求めてもダメ」(〃)ということである。

問題の所在

公定力の制度的根拠についていかに解するか  AAランク

これについては、

  1. 違法性推定説(または自己確認説)(従来の通説)
     いやしくも権限を有する行政庁が公共のために行った以上は、その行政行為は裁判所の判決同様の権威を有し、適法性が推定される。
    (批判)
  2. 反射的効果説(現在の通説)
     公定力は、取消訴訟制度が存在する結果として反射的に生じる効力に過ぎない。
    (理由)

(前掲PP.102-103)

反射的効果説の理由を略したが、抜粋すると、「行政上の法律関係の安定を図るため」行政行為の適法性否定を取消訴訟に限定する取消訴訟の排他的管轄(それ自体を争う特別の取消訴訟でなければならない。)を認めているということである。

取消訴訟の排他的管轄の

  1. 紛争処理の合理化・単純化機能—救済制度として効率的
  2. 紛争解決結果の合理的担保機能
  3. 他の制度効果との結合機能—不可争力における出訴期間など

2がよくわからなくて、裁判を増やすと裁判所の資料が増えるのはよいとして、「行政行為によって意図された行政目的が行政庁の知らないところで覆滅されることを防ぐことができる」とはどういう事例を言うのだろう。

誰かが「信用できる」「信用できない」という平場の話なのか

大谷さんが問われている「ルール違反」は2件。

アメリカの刑法と大リーグの協約。

例えば、分かりやすい例に成るか、日本の公務員なら、刑法と公務員倫理法違反の両方。

特に、大谷さんの場合、後者の影響が大きいのは、


www.youtube.com

これですよ。

つまり、「巣食う」って話。

変な話、左翼なら、「浸透する(浸透戦術)」って話。

どんな些細なことでも、クローズドな関係で 根負けしたら、、、、、、 駄目だってこと(要は、水原が「工作員」としてヒュミント工作をしているのといっしょ。事実上のスパイに成っている)。

対抗策は一つで、オープンにしてゆくこと。オープンに出来ない関係は、大谷のようなセレブは、切ってゆかなければならない。秘密を共有するという「ギャンググループ」はそれだけでリスキーなんだよ、相手(今回なら水原)の為にも、秘密を共有してはいけない。相手が脅されることは十分ありうるから。

プロがわかりやすく脅迫して来るかどうかは知らないが。


とりあえずは、水原の依存症ばかりが注目されているが、脅迫がなかったかどうか。

なかったにしても、「信用貸し」という手法については、理解されるべき。
水原自身に「サラ金」を摘まむだけの財力は担保されていない。

[メモ]構成要件的事実の錯誤

 

違法行為を主体からみると、共犯関係の成立をみるが、構成からみると、着手/完成を以て、未遂犯(未着手)、中止犯(既着手・未完成)、既遂犯(完成)の成立をみる。

このとき、構成要件的事実の錯誤を、要素事実{a1,a2,b1}で、違法行為{A,B}に関して、a1⋀a2→Aもしくはa2→Bのいずれかが成り立つとき、それらをそれぞれ

  1. a1⋀¬a2→A
  2. b1→B

と誤信する錯誤と考えられかを考える。理解としては、

  1. a1の完成(による、A全体としては着手)のみで違法行為Aの完成となる既遂犯と思っていたが、真実は、a2の完成を以て、いったいとなる1つの違法行為Aの完成だった。
  2. b1の完成で違法行為Bの完成と成る既遂犯と思っていたが、真実は、違法行為Aから名付けられたa2は、別の違法行為Bを構成する要件事実として名付けられるb1と同じ内容だった。Aを構成しないと思っていたa2は、実のところ、Bを構成するb1だった。

このとき、次の(それ自体は正しい)説明が、この理解の説明として妥当か。

  1. 同一構成要件内の具体的事実の錯誤は、故意を阻却しない
  2. 異なった構成要件間にわたる抽象的事実の錯誤は、故意を阻却する

錯誤 (刑法) - Wikipedia

具体例を挙げると、

『たとえば、行為者がBから急迫不正の侵害を受け、Bを殺しても正当防衛になり得るという状況だとする。ここで、行為者がBだけを殺せば、Bに対する殺人罪は、正当防衛ということで成立しない。では、同じ状況で、行為者がBだけでなくAまで殺したとすると、どうなるだろうか。』

という問題について

ある法益主体との関係で、殺人罪の成否が問題になっているときは、それと別の人を殺した事実が、 その殺人罪、、、、、、 構成要件該当性を基礎付けることはない

構成要件的事実の錯誤について,專田 泰孝,日本刑法学会刑法雑誌2010 年 49 巻 2-3 号 p. 159-176

と説明される。


日米の報道等では「マネロン」と説明されやすいが、日本の刑法の場合、「共謀」「ほう助」の嫌疑がかけられる可能性がある(かもしれない)。


「窃盗罪」と「横領罪」の違いについて考察



www3.nhk.or.jp

なるほど。

 

もっていない。高い。

持っている。読んでいないが。

内気なゲーデルが心を明かせる数少ない人だった

竹内外史 - Wikipedia

石川県関係者で、あのゲーデルの最後の弟子である。
上杉とイェリネックの関係を彷彿とさせる。『クルト・ゲーデル先生を悼む』という文章が『ゲーデル』に載せられている。人付き合いがなくなったイェリネックは晩年、上杉が訪ねて来るのを楽しみに待っていたそうだ。上杉はイェリネックの葬儀で弔辞を読んだ。死を意識していた病弱なゲーデルが、晩年、毎日竹内の下に訪れ熱心に議論したそうである。それまで1時間30分以上は議論しなかったが、はじめて2時間を超えたのは、ゲーデルにとってどういう意味を持っていたのか。

オーストリアのクルト・ゲーデル・ソサイアティーでは「ゲーデルの学生で友人」と紹介されている。

kgs.logic.at

 

官報 1942年04月21日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

昭和17年第四高等学校(理科乙類)入学。

人事興信録 第15版 下 , 1948 - 国立国会図書館デジタルコレクション

官報 1950年07月20日 , 昭和25年 - 国立国会図書館デジタルコレクション

国立公文書館 デジタルアーカイブ

義父である飛永甚治も教師だったようである。

飛永甚治ヲ長岡高等工業学校助教授ニ任用シ初任判任官俸給制限外支給ノ件

竹内釥次郎と竹内外次は関係があるのだろうか?竹内外次で検索したら、竹内外次郎で竹内釥次郎がひっかかった。竹内釥次郎は石川県士族で、やはり教師である。

石川県立金沢第一中学校一覧 大正4年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション

竹内外次郎は小学校教員である。関係があるのだろうか?

益智社は県内企業だっただろうか?

webtaiyo.com

小学暗算書 答 訂正2版 , 竹内釥次郎 編 , 益智館 , 明22.3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

教育公報類纂 , 竹内釥次郎 編, 奥田則直 閲 , 広文堂 , 明19.12 - 国立国会図書館デジタルコレクション

webcatplus.nii.ac.jp

 

最近は日本を代表する論理学者である竹内外史の論理哲学に関するプロジェクトを進めており、その哲学的な背景(特に西田幾多郎の哲学)を掘り下げつつ全体像を描くことを目指しています(ロレーヌ大学アンドリュー・アラナ氏との共同研究)。

(略)

より具体的には

(略)

(IX) 竹内外史の論理思想(無矛盾性証明の意義、形式主義の哲学)

秋吉 亮太 アキヨシ リョウタ (Ryota Akiyoshi)|researchmap

 

https://www.researchgate.net/profile/Ryota-Akiyoshi

https://www.researchgate.net/publication/332874620_Takeuti's_proof_theory_in_the_context_of_the_Kyoto_School

自覚に於ける直観と反省 , 西田幾多郎, 大正6 - 国立国会図書館デジタルコレクション

ヒルベルトの数学の師(ケーニヒスベルク大学)

mathshistory.st-andrews.ac.uk

ハインリッヒ ウェーバーとは? 意味や使い方 - コトバンク

Carl Gustav Jacob Jacobi - Wikipedia

(ティボルト→ドリクセン→)カール・グスタフヤコブヤコービ→オットー・ヘッセ→ハインリッヒ・ウェーバー→ダフィット・ヒルベルト

ゲーデルには、ヒルベルトの影響と、ブラウワーの影響と、リーマンの影響が見られる。それは数学実在論と数学認識論を同時に、構成主義(カント―ルの延長。)と超越主義(リーマン的な意味で解析的。)をただひとり同時に扱えたたぐいまれな個性に帰結したらしい。完全性定理のオリジナリティーに就いて、直前まで迫った  に対して言い放つ事が出来たのは、この方法論について、絶対の自信があったからだろうと思う。

ゲーデル(とフォン・ノイマン)が世界に冠たるドイツ数学の集大成を成し遂げたことはあまり言われない。
これには少し例外があって、ゲーデルは、彼の有名な不完全性定理のうち、第二不完全性定理については、証明していない(アイデアを得ていたが、完成させることができなかった)。ガウスと並んで称賛される、数学史上もっとも多産な天才、それでいて、数学史においては「いい加減」で有名な(ノイマンが「数学者」講演で言及した「」とはオイラーのことだろう。)、オイラーの方法が、ゲーデルの完璧主義、というよりむしろ、  な質とは合わなかったのではないかと思う。ゲーデルは「いい加減」なことが我慢ならないのだ。

ωωω

は実にオイラー的な構成だったのではないだろうか。よくわからないが。

アルバート・アインシュタインは、フランスからロシアへの流れを再び手繰り寄せたワールドワイドな意義が認められるが(確率についてはロシアで花開いた。)、もう一人の「ハインリッヒ・ヴェーバー」、指導教官と成ったハインリッヒ・フリードリヒ・ヴェーバーには苦労したようである(ハインリッヒ・フリードリヒ・ヴェーバーはマクスウェルの方程式を講義しなかったそうである)。ハインリッヒ・フリードリヒ・ヴェーバーの師がエルンスト・カール・アッベで、アッベの師と言えるのか、「影響を受けた」のは、ベルンハルト・リーマンやヴィルヘルム・ヴェーバーらしい。ヴィツヘルム・ヴェーバー

ゲッティンゲン七教授事件 - Wikipedia

で失職した。

一般的に、ゲーデルの成果として、むしろアインシュタインとの関係で、回転宇宙をほめそやす向きがあるが、ゲーデルにとってそれほど意義深いとは思えない。
たまたまリーマン幾何学の先にそれがあっただけではないだろうか?

ちなみに、ゲーデルを称賛してやまなかったノイマンは、アインシュタインとは微妙な関係だったらしい。これは政治傾向の違いとも受け取れるが、純然たる物理学者で、道具として数学を利用したアインシュタインと、数学者として、哲学的にも考えたノイマンの違いではないかと思う。「理系」と言っても、物理学者と数学者が仲が良いとは限らないのだ。ましてやヒルベルトの弟子であり、師匠を尊敬してやまなかったノイマンにとって(傲岸なノイマンがその生涯において称賛を惜しまなかった2人の数学者が居る。一人はゲーデルであり、一人はヒルベルトである。)、師匠と発見の先取権を争ったアインシュタインに対して何を思ったか。

いずれにしても、乱暴に概括するならば、ゲーデルがおこなったことはルネサンスであって、ドイツの「ギリシャ病」がヒルベルトにおいて最高潮に達したとき、要は、リーマンを嚆矢としてデーデキントで明らかにされた「概念(数学)」とは、ギリシャ人たちが採った立場である、「言明される論理」の付属説明として用いられる「数の手続きで明らかになるメカニズム(シンボル操作であるが、必ずしも「数式」である必要まではない。歴史的に見れば、表上の操作でも十分な場合がある。鍵となるのが、統一された操作が対比され得る対象と成ることであり、そのための特別な記号が、言語操作の代わりに、法として付義—義務付けられる;命令—されることである。このとき、表もひとつの「図」であるが、もう一方の「図」である、コンパスによる作図とは性質を異にする。要は、計算とは、作図と対照的な作業だったのだ。だから、コンパスのような道具立てがある)。また、だから、ただ三角形がそこに描かれてあっても何も意味をなさないのと同じことが、計算にも起こる」を独立に措定する立場である。まずは「説明されなければならない」と強く要請する立場であるが、その帰結として「言明される」ことを確信する立場である。この経緯を持たないことは、単に「在る」と認めなければならない。この立場が、それまでの、クロネカーの計算主義を鋭く批判した。

この点、カントールは微妙な立場で、彼は神学的な立場にたった超越主義者だったため、方々から批判された。無限を扱うのは、何かしらの超越を考えなければならないが、デカルトの時代でないこの頃には、それが神学であることがもはや許されなかった。デカルトは明らかに近代人ではなかったのだ。

そこで概念数学者たちはギリシャ論理の帰結として、要は、媒介的な中間項の(帰結へ向かう)過渡的な操作が本質と見て(存在そのものを本質と見る立場から、操作こそが本質と見る立場への転換;これがヒルベルトの謂った「数学的認識論」だと思う。存在は操作できればよく、操作対象である)、ありふれた有限の原因から操作的な無限の構成へ舵をきって「操作に超越が混じらなければよい」形式、すなわち「「操作」とは「操作できる」ことであるとき、「操作できる」とは何かは、その操作によってえられる具体的な「果実」で「判断」される形式であるとき、その形式」の完成を模索し始めた。「判断」が味噌で、「果実」の中にヒルベルトの「濃度」もその範疇に入るのは、それが操作対象としてふたたび対比されうるからである。すなわち、無矛盾な形式を計算を従属させて論理的に目指し始めた。ギリシャ人の作法である。

そこで意義を唱えたのがブラウワーであって、単純な話、計算の他にも作図があるじゃないか、ということである。作図は言葉から生み出されるのではなく、図を説明するために言葉が援用されるだけであり、要は、図先行論であると謂える。しかし、一般的な解説では、これは相対性理論によってそのままでは維持できなくなったため(物理的時間と物理的空間の無差別性)、そもそもカント主義者であったブラウワーは、幾何的直観は諦め、時間的直観を維持する方針に改めた。ここで「時間」は「物理的時間」を必ずしも意味しないのが鍵である。要は、経緯を持つじゃないか、ということであって(数学者はTIMEとTIMESを厳密に区別したがるのは「連続」と「離散」を同じに出来ないためであるが、いずれにしても、ヒルベルトの言及した「繰り返し操作」などの「経緯」を持って、物理的時間を直ちに意味しない。)、これだけだと、ヒルベルトと何が違うのか不思議であるが、説明されることが、記述的であるか(客観的であるか)記述的でないか(主観的であるか)の違いであり、記述で十分説明可能であるとするのがヒルベルトであり、不十分であるとするのがブラウワーである。記述では不十分であるが、十分「わかる」ということである。

要は、記述されるシンボル操作を説明の「原器」と見るか、それを行う人間自身を「原器」と見るかであって、実はある意味で(人間の意味と意味の獲得を考えて)「神学的」なのであるが、ヒルベルトの神学的立場を避けている。神学をわざわざいう必要がないのは、「わかる」利益に着目して功利的だからである(ヒルベルトを責めるのは国である、たかだか人間が何かを発想するのは何かを類推することでしかない。人間の認知能力には限界があるのだ)。(人間も記号もひっくるめて)実在凡てに義務的である意味での、古典的な目的論を必要としていない(オイラーの関数論はデカルトの作図にあったギリシャ的な目的論を批判していた。数学は無目的であるとの功利的な革命だったのだ。目的と規範的な利益:ルールの果実は分けられるとの主張である)。そういった意味で近代的な議論である。

ともあれ、ブラウワーの主張の意義が曖昧だったので、弟子のハイティングが整理した。要は、矛盾じゃないかと。ここに、無限と矛盾が揃ったのである。ただ弟子は判断を計算に求めて、演算記号に矛盾を含めることで、師匠の主張(排中律の排除)を明確化した。それに師匠は不満を表明した。幾何的、いや新しい幾何学から得られる果実でないためである(実際にブラウワーは位相幾何学創始者である)。その割に、直観主義論理ですべての数学を表現しようとした。経験したことの説明的なレベルで許容されるからである。要は、説明は、後追いである。「はじめに言葉ありき」と宣言しない。ひとつの構成主義である。その経緯を認めることだけが最初にある。経緯が対象を事後的(経験的)に求めただけであると言いたいようだ。対象は経験であって、本質ではない。

ヒルベルトも(もちろん)構成的であろうとしたが、「初めに自然数ありき」、いや、厳密には、初めに0から9の高々数えられる程度の数ありき、としたため※、結局は、失敗してしまった。数学的認識論を主張したのがヒルベルトであったはずが、何か、おかしなことになった。排中律を認めるか認めんないかの問題の本義が、実は、数学的実在と数学的認識たる評価の混在を指摘することに在ったためである。実在の述語表現である「ある」「ない」がすでに評価だったからである。この再帰問題に躓いたのではないかと思う。

※よりまともな説明では「数学を無意味な記号の配列とみて、それについての超数学を新しい算術として展開する」(P.12,ゲーデルについて,『ゲーデル』)

だから、ゲーデルはたったひとつの数学的な方針を堅持した。それを竹内は知っている。無限と矛盾の二重性の利用である(無限と「無限」矛盾と「矛盾」はともに、操作結果であるとともに、評価対象である。対象である限り、操作対象である※)。ゲーデルの着想の源流には実際にラッセル=ホワイトヘッドの失敗があり(ゲーデルは詳細に研究した。)、しかし、それを「失敗しないように」応用したのであった(P,。

これは実のところ、解析学の数学的基礎付けである。

ゲーデルの業績をまずはじめに評価した、評価できたのは、ヒルベルトの学統であった。ヒルベルトであり、ノイマンであり、ベルナイスであった。
そして、実のところ、ゲーデルヒルベルト・プログラムを否定的に解決したが、ヒルベルトの数学の方向性を否定したわけではなかった。ヒルベルト・プログラムだけでは十分に説明できないことを強調したのであった。ゲーデルの論理学には、ヒルベルトの方法論を含んでおり、まったく別のことを主張したわけではなかったからだ。ヒルベルト・プログラムには「限界がある」ことを示したのである。

現に、第二不完全性定理を証明したのは、 であった。

※歴史的経緯としては、超越論を支持する立場と構成主義を採る立場は分かれていたところ、

 


どうも晩年のゲーデルは大いに誤解されていたようで、そのことを弟子の竹内も嘆いている。彼が変人だったのは、竹内自身がよく知っていることであったが(竹内の紹介状を指導教官であったゲーデルに依頼したところ、竹内の論文を蒐集して、一から全部読み始め詳細な分析にとりかかったため、数カ月たっても書いてもらえなかったそうである。)、麻酔を嫌がったそうである。

フォン・ノイマンの最期が念頭にあったのではないか?

極めて頑健だったノイマンと異なり病弱だったゲーデルが、死を口にしたのは、年と 年の2度あったそうである。

私たちが彼らの生涯で見落としがちなのは、彼らが亡命ユダヤ人だったことである。

 

(ハーバード的)アメリカニズムと日本の社会変化[メモ]日本のオリバー・ヘヴィサイドは10次元宇宙を説明するか

日本医科歯科大学の清水研究室の院生募集要項が物議を醸しているということで。

  1. SSH(SuperScienceHighSchool)を通じた高大接続が、制度開始直後に見られた興味対象に従った闇雲な高度化ではなく、数学であるならば、数学基礎論からの高校数学の理解に帰着しているようである(大学初年度への架橋)。
  2. 医学部受験(関西医大)ですでに出題されている
  3. 大学無償化が現実化する以前に、受験生の医学部受験へのシフトが進むなど、入試マーケットの需要変化が起きて過年経つ
  4. 新受験方式で受験した親世代がセンター試験導入時の世代に重なる
  5. この人口のボリュームゾーンを抱えた世代は、高校進学にあっては、などの新名門校を産み、大学進学に在っては、青山学院大学の躍進を生んだ。
  6. 前者は、マーケットの需要圧力に棹差して、偏差値を利用した自己実現であり、後者は、リスクヘッジの心理を利用した(受験)ポートフォリオである。
  7. すなわち、現在の当該校の偏差値に数ポイントプラスした募集をかけると、需要圧力からその偏差値を満たす受験生があつまって、結果としてその偏差値に見合うのであり、また、複数受験を前提として、受験日程と受験科目に応じた総合的なコストを考えた場合、有利なポートフォリオ・バスケットを形成して受験生に選好されやすくなった次第である。その結果、英語に関しては、東大を凌いだということであった(研究者に依れば、東大の「面目」を一貫して保ったのは、数学であった)。
  8. 似たようなことが、現在、医学部受験で起きているのかもしれない。
  9. 日本の医学部も、戦前から、独自の権威を保っていたが、昨今の状況には世界的な影響も見られるのではないかと思う。
  10. ワクチンが新しい産業として
  11. (今まで以上に)期待され、競争が激化している。
  12. ビッグデータ解析が現実化したためである。
  13. 産業を牽引する主体として、かつての「工学部」のような存在に「医学部」はなりつつある。
  14. そのような社会背景を背負う現在にあって、あらためて「アメリカニズム」を考える必要に迫られている。
  15. 「ハーバード的」とは、「競争的」であり、端的には「足きり」に現れる。必ず落伍者を生むシステムである(成績が下位数%に入らないことが、進級の要件となっている)。
  16. 彼らは、基本的に自由主義者であり、道具的な社会改良主義者である。
  17. また、それは、実践的な「新結合による創造」で、社会的に実現される(プラグマティック)。
  18. 時間には制限があり、利用資源には限界がある。したがって、資産形成がベースと成る。その意味で資本主義的である。
  19. 彼らは意思主義者と言えるが、厳密な意味で、個人主義者と言えるのか。もとより自由主義者であるし、帰結主義者ではあるかもしれない。
  20. 「フェア」なルールの下での「マネージメント能力」が尊ばれる※。
  21. 彼は、そういった意味で「ハーバード的」であり、蛮勇的な「ボス」として成功を収めるかもしれない。その場合、アメリカ的な成功の果実として、利益を独占できる。
  22. そうでなく、明治の日本がエリートを階層的に形成したように、指導者の指導者として最も上位に君臨するかもしれない、かつて、帝大が私大(専門学校)を「指導」の名の下支配したように。
  23. ともかくも、医学部受験が入試の華と成り、新入試制度も発足した。その流れに在って、架橋的な教材をすでに手にしている「エリート高校生」が、有利な状況にあるかもしれない。すなわち、すでに経過依存的な社会になりつつある。
  24. 振りかえって見れば、よい教材はマーケットに十分「ある」が、情報の非対称により、高校生にはアクセスが困難かもしれない。
  25. 時間制約の中、親の世代の資産形成を通じた、マネージメントが試されている。
  26. それについて、相当「割り切った」考え方を提示している。
  27. つまり、研究室に入るために大学入試に再挑戦することまでできるかが問われるのであり、また十分な社会実現を反映した(人生の)期限を切ることで、早期のアクセスを通じた自己実現の意味を鋭く問うている。
  28. これらは「信頼できる自己」による「リスクへの決断」と「社会的な実現」に基礎づけられる「ビジネスエリート」のモデルである。

※日本の真珠湾攻撃が「スニークアタック」であり、アメリカのフライングタイガー(による義勇軍)が「参戦」でないのは、ルールの自己実現の問題である。アメリカは「中間的な振る舞い」を可能とすることができる。それは未だ「スニーク」でないのだ(価値が「付与される」という意味で決定されない。構成的社会観のひとつと謂える)。

 

望ましい自我の形成には、実践的な行為形成に関する「ホーリズム」(唯一操作可能な〈私〉を通じてのみ〈私〉に操作不可能な利益が実現されうる、非対称な「期待」の問題。)と主体的な意味形成に関する「ロマンチシズム」(不可逆的な人生の意味は〈私〉がいつでも自由に決められる、不特定な「満足」の問題。)の2軸で説明されなければならないが(いずれか一方のみだと、説明能力が不十分で、人格的に欠落していると言える。)、制約を明らかにすることで、時間軸に関して、道具的な選択がより鮮明に合理化される。これは社会の持つメカニズムである。


(『オリバー・ヘヴィサイド: ヴィクトリア朝における電気の天才-その時代と業績と生涯』より)

(『時間と空間の原理 新八元数相対性理論』より)

テンソル」と「スピノール」

 

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