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こういうことだそうです。しかし、さらに、、、

@user-sm3py9nq8w
9 時間前
この話題が出る度に感じるのが、0.999…=1に疑問を持つ人はε-N論法の論理(任意の精度で近似できること)が理解できないというよりも、「そもそも何故ε-N論法をそのように定義していいのか」って部分で引っかかってるんじゃないかと。 ε-N論法で任意の正の実数εより小さくできることを以て0と等しいと定義していいのは、アルキメデス性(を含む実数の定義)により無限小が実数体の中に存在しないことが保証されているからであり、そのことを明確に説明しないと恐らく納得してもらえない。

返信
 これは数の実在性と数の認識性を敢えてごっちゃにすることで「納得」しています。実在として厳密に考えると、「実無限小」を認める数学ではないでしょうか。
 実際に、2通りの数学があるのですから、やはり難問だろうと思います。
 数学基礎論の歴史の中で「数学的認識論」を明言したのは、ヒルベルトということです。ヒルベルトの議論の枠組みの中でゲーデルの不完全定理があったのではなかったでしょうか。

 

と返そうと思ったが、専門的に修めていない私にその資格はない。
失礼なのでやめておいた。


2通りの数学がある—ニュートン流じゃなく、ライプニッツ流の数学※があることを知らい人が居るかもしれないので、無駄な議論は避けたい。


(『数学100の発見』より)

※若干、混乱するのは、「微分の発見者はニュートンライプニッツで、現行の方法はライプニッツに依拠している」という説明が一般的になされるから、「実無限小」を認める数学の意義が見えなくなる。

ネットには、ちゃんと、それで計算して説明している人も居るのにね。
リンク貼れればいいけれど。どこだったか。
だから、数学科とか進学したら、別に普通に知っていそうな気がしないでもないが、どうなのだろう?行っていないのでわからない。

実は、「無限小」を認めるのは、数学でほとんど議論されないが、哲学では最近まで議論されていた。実は、ウィトゲンシュタインである。ウェトゲンシュタインの哲学的発見は、実はあまりなく、真理値表くらいなのだが(これも独創というよりも、時代の要請で、先行者にクリスティ―ン・ラッド=フランクリンが居る。要は、アリストテレスの論理学の完成乃至克服の問題だったのだ。ギリシャ哲学はつい最近まで、いや、極限概念に至ってなお、強い影響を残しているのだった。ヒルベルトの数学革命の本質もここにある。数学の再「ギリシャ数学」化— 流の計算主義批判からの道具としての数学を従とする論理主義—及びその克服である)、「ギリシャ病」のフィーバーのさなか、ライプニッツーカントのドイツ哲学の系譜を引き継いだのが、ウィトゲンシュタインであり、それを哲学の本流とするのは、実は裏に、ギリシャ哲学がある

ドイツ人は、そういった糊塗が、非常に上手い。
そして、なぜか、これに限っては、イギリス人が遠慮している。それくらい、ギリシャ哲学は、(キリスト教と並んで)ヨーロッパにおいて根幹を為していると謂えると思う。要は、ルネサンスの意義である(ヘブライズムとヘラニズムとゲルマニズムの調和)。

[比較]アプリオリな総合判断と超越論的演繹(直観と純粋悟性概念—純粋悟性概念に見るアリストテレス論理学に基づく判断表とそれに基づくカテゴリー)


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〈私〉という「主体」の獲得と「述語」革命(「主語」の発明;神が唯一の主体のときは、述語は主体に従属的な形容概念に過ぎなかったが、〈私〉は—別の—主語を述語に従属させる)。

単一性(量;単称的)/実在性(質;肯定的)/存在性(様相;主張的)/実体性(関係;定言的)のカテゴリー(判断表)の4分類が重要である。

特に、総体性(量;全称的)と制限性(質;無限的)が存在性に関して可能性(様相;問題的)が問われるのか、実体性に関して原因性(関係;仮言的)が問われるかで「矛盾」となる(「すべて」を決める「無限」と「矛盾」の認識)。