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構成に関して2次表示={表示,{表示}}をなんとかうまく説明できないかと思って、ε-δ論法にしても、対角線論法にしても、独立な二次対象(要は、xに拠る定義域とyによる値域、自然数無限小数)を扱っているから自己言及できるのだろうと思うが(だから、間違った自己言及に拠る「矛盾」を通じて、証明される。∃∀が不可能な数であっても、∀∃が可能であるとき、∀∃[∀,同定]の構成が可能であるように。この括弧[]が、表示の括弧 {} のアナロジーとなっている。)、集合の知識が(ほとんど)ないので、無理なようだ。仕方がない。もっと正当な勉強が要る。
チャールズ・ドジソンの論理が「対角線論法」と同義であることを証明する目標があるのだった。

無駄に記録を遺す必要はないが、まぁ、いいか。

もともと何を考えていたのだったか。
「クラス化」と「偶有」である。
その際、フランス語が「より明晰である」と感じていたのだったと思う(強調構文と指示代名詞)。

  1. I know the least of my demerits merit this miserable death ;
    but wilfull striuing against knowne truth exceedeth all the terrors of my soule. 
  2. It cannot be but he was murdered here ; 
    The least of all these signs were probable.

これらと

  1. C'est ce qu'il a écrit de meilleur.
    それが彼の書いたものの中で一番良いものだ.

の比較である。écrit は écrire(不定詞)の過去分詞で複合時制の助動詞 a(avoir)を伴っているらしい。
なぜ、論理に展開したかというと、英文の方にクラスを用いたとき、値域の範囲(<ε;=ではない。)という「多」性を感じたからである。

偶有の形象を対象として量が認識されるとき、表示どうしの比較(差)のクラスとして集めらるのかどうかである。

Nobody, No one, None, の違いとは?【英語力の向上】|英単語のオンライン補習塾

every,each,allの違い|後ろは単数形、複数形?|30代から始めるビジネス英会話

everyの例外に、every+複数形があるが、これに近い印象を受ける。
つまり、構成に拠るからだ。
すなわち、その比較が、量(1,2)を直接採り上げずに、或る差(|εーy|)を採り上げているように感じる。その「或る差」が任意であるために、”every”であるし、”the least”に感じるのだ。

every + 単数形 「どの~も」「すべての~」

「each/every/all」の単数形・複数形の使い分けを超分かりやすく解説 |b わたしの英会話

意味も近い。”the least”は「どの欠点をとっても」という譲歩的な意味合いだったはずである。

まとめると、

  • 意味論的には、「絶対的最上級」で比喩、抽象的
    cf.譲歩構文
  • 構文的には、「差」を構成したクラス化に拠る複数扱い
    cf.every+複数形

で、これが前段の「表象力」の話で、これが”miserable”の「評価(力)」と繋がっている。ε-δ論法対角線論法も「表象力」の賜物だったのだ。力不足が否めず消化不良で残念であったが、延々とそれを理解することに費やした。

ライプニッツもこういったことを議論していて、

ふたつのものがあって、それぞれについていわれることの間に規則だった恒常的な関係が成りたつとき、一方は他方を(私の語の用法では)では)「表現」します*47。おなじようにして、遠近法の投影図がその実測図を「表現」します。表現とはあらゆる形相が共有するものであり、自然の知覚、動物の感覚、知的な認識をその種とするような類いなのです。

「 G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.242). 平凡社. Kindle 版.

ライプニッツでは、表現( expression)とは一定の対応関係があること。 知覚( perception)も一が多数と対応関係をもつので、表現のひとつとなる。

G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.286). 平凡社. Kindle 版.

「遠近法の投影図がその実測図」とは要はデカルトの曲線法であって、実体論(実在論)の講釈の後に、「この考えにはデカルト氏も同意されたことでしょう。」(P.243)と言っている。

実はこの頃、デカルトの「法線法」、フェルマーの「接線法」、ライプニッツの「逆接線法」が凌ぎを削っていたのである(ほかにも、ホイヘンスやベルヌーイ兄弟などの画期的な発見が相次いでいた)。

Aristotle, in his "On the Soul" believes that human intellect at first is just a receptive faculty. This receptive capacity becomes actual by receiving the forms of things.[2] It seems that Farabi for the first time in his book Treatise on Reason ( Risala fi'l-aql) renders the hierarchy of intellect following his theory on intellection. There Farabi tried to distinguish six meanings of Aql. The fifth intellect among them is very important. Farabi took notice to elaborate this kind of Aql in correct. Fifth reason itself divided to four stages, wherepotential Aql is the first stage. Other stages include actual intellect, acquired intellect and finally active intellect.[3]

Aql Bil Quwwah-Wikipedia

”al-quwwah”(表象力)について。アリストテレスと、アリストテレスを研究して「第二のアリストテレス」と尊敬されたアル=ファーラビー。ただし、ネオプラとニズム寄りのアリストテレス研究だったらしい。

変化率に触れつつ、ライプニッツが、実のところ、デカルトと実在観念について同様であることを言ったのであるが、どうしてそういう話になったかと言うと、古典的アリストテレシャンであるライプニッツは、「分割」について議論しているのである。

 [Our] objection [to this] is the same as [our] previous one. For replacing the expression "imprinting" by the expression "relation" does not resolve the difficulty in the case of what is imprinted in the ewe's esti- 30 mative faculty of the wolf's enmity, according to what [the philosophers] have mentioned

- al-Ghazali , Abu Hamid Muhammad . The Incoherence of the Philosophers, 2nd Edition (p.323). Kindle 版.

そして(両者の生きた時代は異なるが)そのような哲学者をガザ―リーが批判しているのである。
「知覚」対象ならばなんでも「分割」できるのか。

 これにたいする反論は、前に述べたことと同じである。たとえ「刻印」という言葉を「関係」に代えても、彼らが述べたように、、羊の評価力の中に刻印される狼の敵意に関する困難は、払拭されないからである。

 そもそも知覚には関係ががかならずあり、その関係には君たちが述べたようなことが必然的に伴う。ところが、敵意は量や大きさで計量されるものではない。したがって、大きさを持つ物体の中にその映像が刻印され、映像の諸部分の中に関係づけられることはないのである。そこで、狼が一定の大きさをもっていると評価するだけでは、〔敵意の知覚を説明する〕のに十分でない。

 羊は狼の姿以外に何かを知覚しているのである。それが対立・反意・敵意であり、形象を超えた敵意には大きさはない。ところが、羊は大きさをもった物体によってそれを知覚したのである。以上のようにして、この説明にも(引用者註:「もし単一的な理性的知の対象—質料をもたない知の対象—についての知が、偶有が物質的実体の中に刻印されるように、質量の中に刻印されているとすれば、前述のように、物体の分割とともにその知も必然的に分割されることとなる。」「五感に刻印される感覚対象は、分割された部分的形象の映像に過ぎない」)、前の場合と同様に、疑わしい点があることが判明した。

P.294-295,〔第十八〕問題,〔第二部〕〔自然学〕,『哲学者の自己矛盾』

ライプニッツの議論はよくわからないのだが、

ライプニッツは、「表現」と「思考」を「意識」で繋ぐ(「理性的魂では意識を伴い「思考」と呼ばれる。」pp.242)。

ガザーリーは「表象力」と「評価力」を「思考力」で繋ぐが、全体を貫くのは「意志」である。

 

 

そして、これが中途で見つけた「蠅の王」を介して、実は、ガザーリーの第20問題へ繋がる。
そうすると、これがまさに、(驚いたことに)『オセロ』の話そのもので、全文を詳解して、『オセロ』と照合したいくらいだ。

つまり、なぜ、イアーゴーが、下品な言い方をすると、いきなり「エロ話」をしていたかというと(この場面は導入部で在るにもかかわらず、辟易とする。正直、このような中世の「趣味」など要らないと思っていたが、そうではなかったようだ。)、「フール」と呼ばれる死んだ後の天国で結ばれる女性と関係していたようだ。単に「大人の出し物」だからと高をくくっていたが、ちゃんと意味が「あった」のかもしれない。
そして、名誉と評判の話である。

名誉と支配を求める人についても同様である。彼は例えば、名誉を棄てて恋人との約束を守るか―その場合、他人はそれを知り、噂は広まる—、それとも名誉を守り、恋人との約束は棄て、恋人をないがしろにして自己の尊厳を守るかで迷う。しかし、彼にとっては、間違いなく後者の方がより喜ばしいことである。勇者は死の危険をも顧みずに、ただ死後に予想される賞賛と賛美の歓喜を求めて、大勢の敵の勇者に向かってゆくだろう。

P.330,第二十問題,〔第二部〕〔自然学〕,『哲学者の自己矛盾』

ライプニッツの考えた「偶有」。

これに対して、偶有的なものとは、その概念が属しうる主語に帰属しているいっさいの述語を含まない、そうした概念の存在のことである。

G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.18). 平凡社. Kindle 版.

「内‐在( in-esse)」と区別される「偶有性」はまた、神のみが指摘できる「このもの性」とも区別される。アレクサンドロス大王が王なのは偶有性であるとライプニッツは言う。王はアレクサンドロスに依存しないからだ。accidentである。

*27―― 写本では「これこそが述語は主語の「うちにある」として内在とよばれる……」となる。
G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.79). 平凡社. Kindle 版.

*28――「このもの性」(haeccéité)は個体化のおりに共通本性に付加される差異を指示する。 ドゥンス・スコトゥス( Duns Scotus, 1265/ 66-1308)に帰される 概念。
G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.80). 平凡社. Kindle

私は結合ないし連関には二種類あるとみなす。一方は、その反対が矛盾を含むような完全に必然的なもので、こうした演繹は幾何学的真理もそうであるあるが永遠真理において生じる。他方の連関は、「仮定的」にのみ、いわば偶有的に必然的なのであり、その反対が矛盾を含まないわけだからそれ自体では偶然的である。しかもこの結合は、完全に純粋な観念、神の端的な悟性にではなく、神の自由意志と宇宙の連鎖に基礎づけられている[ 37 以下]。

G.W. ライプニッツ. 形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡 (平凡社ライブラリー794) (p.25). 

このとき、ジュリアスシーザーの行いを指して「こうしたおこないは彼の概念に含まれている。」という。述語が主語に完全に包摂されるのが主体の完全な概念の本性だからである。こういった文章を読むと、『アリス』ただの滑稽本ではなく、論理の伝統に沿っていることがわかる。アリスという概念が、アリスの述語化される本性を完全に包摂(包含)するのだ。これを言っているのが、かのライプニッツである。

ライプニッツのこの書簡が理解に困難を感じるのは、まさにこの点である。

ライプニッツは、論理を語っているからだ。
彼は明らかに集合論を論じている(実際に、「集合」という訳語が頻出する)。
しかし、彼の定義によれば、それは(「集合」ではなく)「集積」である。
これは「機械」の言い換えで、「世界」(概念;本質)を主語とする述語(本性)であるために、「世界」に包摂される。

要は、彼は「外延」(和集合)ではなく「内包」(積集合)を語っているのだ。

外延と内包

詳細は「内包と外延」を参照
ある概念等について、「それに含まれる全て」を列挙したようなものを「外延」、「それら全てが共通して持ち、それに含まれないものは持たないような属性」を示したようなものを「内包」という。

ここでは集合の例で説明する(詳細は集合#記法)。なお、集合の場合は外延性の公理により両者は同じものとするが、哲学では外延と内包がどういったものであるかについては議論がある(詳細は内包と外延#哲学)。

  1. 例) 集合 A は {1, 3, 5, 7, 9} 、という集合である。(外延)
  2. 例) 集合 A は 10 以下の奇数である自然数の集合、という集合である。(内包)
定義 - Wikipedia

「外延性の公理」とはこれである。

また、逆も成り立ち、

外延性の公理 - Wikipedia

空集合公理」「置換公理」「対集合公理」「和集合公理」とあって「冪集合公理」とはこれである。

冪集合公理 - Wikipedia
わかりやすい例では、

集合の記号で書くと、内包は「芸術」を、

「芸術」=「自己表現」∩ 「人間活動」 ∩ ...

のように積集合で規定する。「芸術」は右辺の諸概念の内包(すなわち特殊化)として表される。一方、外延は「芸術」を、

「芸術」=「音楽」 ∪ 「絵画」 ∪ 「彫刻」 ∪ 「文学」 ∪ ...

のように和集合で規定する。「芸術」は右辺の諸概念の外延(すなわち一般化)として表される。

「内包」と「外延」という概念は通常互いに対義語の関係である。ただしその定義については哲学者によってより限定したものとなることもある。また、内包は志向性(Intention)との関連で論じられることが多い。

家族的類似も参考。

冪集合公理 - Wikipedia

さらに

このことは E から F への写像全体のなす集合を FE と記す

冪集合 - Wikipedia

cf.直積集合 - Wikipedia

「志向性」に関しては、ガザ―リーとの違いが問題になっていた、ライプニッツの「意識」への解答を含んでいると思う。

志向性(しこうせい、独: Intentionalität)あるいは指向性(しこうせい)とは、エトムント・フッサール現象学用語で、意識は常に何者かについての意識であることを表す。

志向性 - Wikipedia

フッサールはブレンターノから引き継いでおり、

全ての心的現象は中世のスコラ学者が対象の志向的(もしくは心的)内在性と呼んだものおよび、完全に明確ではないが、対象つまり内在的対象性と我々が呼ぶかもしれないものによって特徴づけられる。あらゆる心的現象は、必ずしも同じようにではないが、自身の内に対象として何者かを含む。表象においては何者かが表象され、判定においては何者かが肯定または否定され、愛においては愛され、嫌悪においては嫌われ、欲望においては欲望され、…というように。志向的内-在性は専ら心的現象が持つ特性である。物質的現象はこのような特性を示さない。したがって、心的現象はそれ自体の内に志向的に対象を有する現象だと定義できる。

この「意識」がライプニッツの「意識」でないだろうか?

P.89に「アリス」における冪集合についての説明が在る。

  1. A= { {a},{b},{a,b},  }

単なるaとbであった物がたちまち4つの意味を創り出した。aをアリスとし、bを小鹿であるとすれば、上の4つの集合は例えば次のような意味を表す。

  1. {a}=人間の子ども
  2. {b}=小鹿
  3. {a,b}=動物
  4.   =動物でないもの(植物,無生物,抽象概念,感情,ほか)

こうして「べき集合はそれ自体が集合であることも忘れてはならない」と説く。

こうして意味がまた増える。べき集合とは「世界」とか「全体」「すべて」などといった意味を与えられる。

 実体が意味を創り出し、意味が疑似実体を創る。このプロセスは無限に続き,キャロルの世界には疑似実体が氾濫する。フレーゲラッセルのように飛躍できなかったキャロルの嘆きの声が疑似実体の洪水の中から聞こえてくる。

P.90,3.1超素朴実在論:実体と属性の意味論,第3章意味論者としてのキャロル

この章は「♣nobodyとは誰か」(P.79)から始まる。
不思議なことに、ここで言及されているフレーゲラッセルのほかにもアリストテレスヴィトゲンシュタイン、オースティン、クリプキソシュールチョムスキー、、ド・モルガ、ブール、ミルほか論理学者、数学者、言語学者を、専門家らしくたくさん挙げているのだが、なぜか、カントールが登場しない。

冪集合を扱っているにも関わらずである。そのせいだろうかか、ゲーデルも現れない(アロンゾ・チャーチも現れないし、ツェロメロもフレンケルも現れないが)。
ヴィトゲンシュタインは現れる。なんとなくわかる。意味論(外延/内包)からの解放だ(家族的類似)。

ドジソン(1832-1898)は最晩年(1895)、ゼノンのパラドックスを採り上げた。

バートランド・ラッセルは床屋の話とこれを「論理学に対するドジソンのもっとも偉大な貢献である」と述べている(P.235,上掲)。
床屋の話は1892年の『論理的逆説』で採り上げたらしい。これにかみついたのが、ジョン・クック・ウィルソンで、何年も論争を繰り広げて、ドジソンはその様子を『論理の論点』にまとめて配ったらしい。そのときに偽名を使っていて、それがアウティスで、ギリシャ語なのだが、nobodyを意味するらしい。ウィルソンが、誤りを認めたのは、「アウティスの死後7年も経ってからのことでした」と著者は書いている(P.234)。

さて、さきほどの「もっとも偉大な貢献」は事実上、冪集合を意味しているのだ。
すなわち、ゼノンのパラドックスは通常無限分割に帰着させるのだが、これを「表示問題」に置き換え、「それへの言及」をこそ対象化したことが、余人の発想を許さなかったのだ。
だから「収束」の反対に「発散」する。

しかし、よくよく考えてみると、「発散」したから何だというのだろう?

べき集合はそれ自体が集合であることも忘れてはならない」のである。つまり、それは必ず「世界(座標系)」に対応する位置を見つけるのだ。なぜなら、「世界」自体が「無限」の広がりをすでに持っているからである。

宗宮がカント―ルを採り上げていない理由がなんとなく察せられた次第である。
ゲオルク・カントール(1845-1918)が「対角線論法」を論文で示したのは1891年とのことである。


[Note]

デカルトは数は量だと言い、スティブンは数は表示だと言い、カント―ルは数は構成だと言ったときに、スティブンにしてもカント―ルにしても、数が量でないと言ったわけではない。数は相変わらず量である。しかし、それを表示できる(デカルトにとって、それは、数でなく或いはそれを含めて表現の問題だった)。扱い方が変わったのだ(すなわち、デカルトに即して言うならば、表現の内に自ずと数も含まれているか、数の内に自ずと量も含まれているかで、意味の構成が、反転したようだ。この意味の表示が言明である)。

εδ論法にしても、対角線論法にしても、0< ℓ < ℒで ℓ が自由に取り出せるとき、その逐一について、順序付けられるならば、それが外延である、と言う主張だろうと思う。この「自由」が内包における無限分割を許容している。
無限分割した内包量を外延として指示できることを、εδ論法対角線論法では反対から言っているようだ。鍵は、

  1. ∀∃         外延化に拠る「逐一」
  2. ∃∀         内包化に拠る「(自己を含んで)全体(whole)」
  3. ∀∃[∀(同定)]  アリス文;内包化してもそれを「逐一」

やはり「同定」(の機序)だろうと思う。
このとき「無限」とは単なる量ではなく、表示を通して理解される、構成された許容度のことであると思う。このとき、何を許容して何を許容しないかが、言明の意味論であると思う。


本当は今日はそんなことを考えていたのではなくて

混乱してわすれそうなので、note

レオナルド。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000161909

足立先生が、イエスの弟子がイエスを裏切った話に触れていて、なるほどと思い立ち、最後の晩餐のメニューにオマールエビが出ていなかったか、見てみた。

  1. パン
  2. ワイン
  3. 魚の切り身かウナギのグリル
  4. オレンジかレモンの薄切り

こちらはオマールエビが美味しそう。

Ajouter un peu de vinaigrette et un zeste de pamplemousse sur les morceaux d’asperges. Couper le pamplemousse de Floride en quartiers et ajouter l’huile d’olive, le poivre noir et le gros sel de mer. Faire bouillir tous les ingrédients pour le gel ensemble, laisser reposer et mélanger jusqu’à obtenir un gel lisse. Garnir tous les ingrédients sur l’assiette (les asperges, l’anguille, le homard, le pamplemousse, le gel de Pamplemousse de Floride) tout en servant avec un peu de yogourt, du pain grillé et des quartiers de pomme.

Google翻訳

アスパラガスに少量のビネグレットソースとグレープフルーツの皮を加えます。 フロリダ グレープフルーツをくし形に切り、オリーブ オイル、黒コショウ、粗塩を加えてゲルの材料をすべて沸騰させ、滑らかになるまで混ぜます。 プレート上のすべての材料 (アスパラガス、ウナギ、ロブスター、グレープフルーツ、フロリダ グレープフルーツ ジェル) を飾り、ヨーグルト、トースト、スライスしたリンゴを添えます。

RECETTE ÉTOILÉE : HOMARD, ANGUILLE FUMÉE ET GEL DE PAMPLEMOUSSE by ElleMixe 4 mars 2015|ElleMixe