markovproperty.hatenadiary.com

カントールの定理の証明と対角線論法|高校数学の美しい物語

ε-δ論法もそうだったけれど、カント―ルの定理の説明も直観的すぎて、よくわからない。

偉い疲れた。

  1. この無限とあの無限を比較したい
  2. 数が量であるとき、「最大数」の量を(直接には)採り上げられない
  3. そのために表示で比較することとした
  4. 表示は「ある」「なし」に過ぎないので、それで「ひとつ前の数」との順序を比較できるからである
  5. したがって、2進法で「すべての数」を表示できるならば、「すべての数」を順序通りに並べることができるはずである。
  6. こうして、「順序」の比較を以て「量」の比較に替えた

じゃないかな?と思う。知らない


しかし、この単純な「表示」方法だと、それでも「無限」と「無限」の大きさを十分比較できない。いずれその数に追いつくからだ。

この「いずれ」を適当に表示したい。
「有無」のクラスである「1(ある)」「0(なし)」の単純な「表示変換」に基づく2進数と10進数の1対1の対応の中間に「起こりやすさ」としてのクラスである「偶数」と「奇数」を置いて1対1でなくしてしまった方法論にカント―ルの画期性があったと思う。
「いずれ」の速度比較から「起りやすさ」(対応付け)の濃度比較への変換である。


ここでの主張は、数は数である、として、2進数と10進数の内容が「同じ」であるとみなすと、よくわからなくなる、ということで、クラス化することで「わかる」ことが「ある」ということである。
敢えて言えば、デカルトは「数は量である」と主張し、スティブンは「数は表示である」と主張し、カント―ルは「数は構成である」と主張したのだと思う。

そうすると、「ゼノンのパラドックス」の「追いついたと思ったら、追いついていない」って結構いいこといってんじゃないの?ってなる。結論は、おかしいけれど。
これは「矛盾」すなわち分岐条件の存在を言っているわけで、言い換えると、1対1の対応じゃないことを示唆している。
分岐条件をどう構成するかが数の肝であると思う(古代人はそこまでは考えていない)。

 

2進数の生成の表で、1桁目の行を見ると、[0101~]となっていて、(「対角線」を捨てて)無限小数の生成に関してこの反転[1010~]を考えようかとも思ったが、やめた。

無限小数を構成したときに、その内容に表示を伴うので、その表示を二次的に対象とできる。「数の生成」が「表示に言及した繰り返し」に表示を降る作業とも言える。
{} が数であるとき、これを対象として言及した {{}} も数であり、無限に繰り返してできるどの数も適切に数であり、「無限に繰り返せる」ことのうちに、「或る表示を替える」ことでできる数も元の無限小数の集合に戻れる。

{自然数の集合}{無限小数の集合}{無限小数の集合}’

{自然数の集合(順序表示を持った集合)}{無限小数の集合(順序表示を持った集合)}{無限小数の集合(順序表示を持った集合)}’

このとき、

{自然数の集合(順序表示を持った集合)}{無限小数の集合(F順序表示を持った集合)}{無限小数の集合(G順序表示を持った集合)}’

{自然数の集合(順序表示を持った集合)}{無限小数の集合(F順序表示を持った集合)}{無限小数の集合(G順序表示を持った集合{F順序表示})}’

ま、いっか。

すなわち、{表示{表示}}という数構成となっている。
それは0=0、1={0}、2={0,{0}}の操作の順序と近いと思う。

また、当初の無限小数の構成について、2進数の比較表示である1・・・1を引数にして(0.1・・・1)を構成し、それを用いて、1に限りなく近づく大文字ℒとして小文字 ℓ=|1-ℒ|を無限小数の順序1を付与して、順次、それに言及を繰り返すことで、無限小数を構成できないか考えた(反対に、ℒ=|1-ℓ|)。ただし、これは根拠なきアイデア(だけ)である。εδ論法により、適切に1つの値が選べるにしても、無限小数で在りかつ(末尾が0で終わらないことと末尾1でも0でも終わらないことの区別;有限小数の排除。表の無限の先の右端に0が並ばない)、1に極限まで近づくことの両方を満たす写像がよくわからなかった(要は、2進数の表を単に転写するだけでは十分でなかった)。

  1. 無限小数が無限であることの証明
  2. 1ゆえに、無限小数が無限にあることの証明

の2つが必要なようだ(このとき、無限小数は、ある小数の末尾が無限に伸びる数で在り—表現の(1行の)無限、かつ、そのような「無限小数」が無限に在る—表示の(並列する)無限、両方の性質を「無限」の構成から導き出せるはずである—行列なので、対角線ができる)。