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結局、何に帰着するのが目標だったかと言えば、意味論的には「偶有」の理解であり、構文論的には「偶有」を用いる際の文法(数え方など)であったようだ。暗中模索なため、何を「目標」としているかもよくわかっていなかった。動機だけがあった。
なんとなく、フランス語の”du”(部分冠詞)の理解の整理に添えられるのではないかと思っていたが、もう少しそのサインが明瞭になったような気がする。
- Le moindre effort lui coûte.
ほんのわずかの努力でも彼には辛い
(P.299,Ⅲ類似表現の研究,解釈,『フランス語ハンドブック』)
牽引を見ると、
最上級 17,59,299,300 ◇所有格形容詞とともに 59,299
副詞の~ 59
接続法を従える~ 115,189,281-2
〈一番(もっとも)…の〉 298-9,299,299-300
〈この上なく,きわめて〉 181,206
〈…ほど~なものはない〉 173,355
とあって、そのひとつ「所有形格容詞とともに」である。
- The slightest effort costs him.
になるが、単語ごとに変換すると
- The lesser effort him cost.
である。”lesser”が”least”だろう。google翻訳の単語検索では
- Plus petit (en quantité, en importance), plus faible.
≪Un moindre mal.≫
である。”lesser”が”least”だろう。この”mal”は、「マル・トリートメント」の「マル」と同じだろうか、「悪い」という意味らしい。
なるほど似たようなニュアンスを持った文であることがうかがえるのだが、「所有格形容詞」ということがよくわかっていない。
- I know the least of my demerits merit this miserable death ;
but wilfull striuing against knowne truth exceedeth all the terrors of my soule. - It cannot be but he was murdered here ;
The least of all these signs were probable.
の文に戻って、「絶対的最上級」のニュアンスから、「受験英語」的(簡便化された)文法理解による
- the least (of my demerits) merit this miserable death
を、いっそ
- (the least of )my demerits merit this miserable death
とレトリックを為す形容詞句として限定的に理解し直して、複数形を導くことも考えたが、”King of Flies fly”(「蠅の王が飛ぶ」)という文章構成が可能かどうかをbing検索すると、
King of Flies is a Demonic Power that allows the user to create a army of flies which the user can control and direct to his will. The flies can form magic circles which can fire a powerful aura. A unknown Beelzebub Descendant demonstrated the ability to combine the flies into a larger, more powerful fly beast.
King of Flies | High School DxD Wiki | Fandom
があった。
知らないが、Beelzebub(ベルゼブブ)のことだと思われる。
検索結果の表示からリンク先へ入ると、やはり
King of Flies is an ability primarily used by members of the Beelzebub Clan of Devils.
同前
ということらしい。
旧約聖書の「元神様」である。豊穣の神だったが、異教の神だったがゆえに、蔑まれることとなったらしい。
これがなぜ、”The king”ではないかと不思議に思うが、”Japan”の用法と同じで、固有名詞なのだろうか。しかし、”sun”における一般的な意味「日光」との区別を示す”the Sun”(the + 頭文字が大文字化)※である”the King”でもない。
※ デイビッド・セイン; 森田 修. やり直し教養講座 英文法、ネイティブが教えるとこうなります (NHK出版新書) (p.34). 株式会社 NHK出版. Kindle 版.
ただし、ギリシャ人の「不可能」を示す修辞には、”a Sun”(宇宙にあるいくつかの太陽のひとつ;別の太陽系の太陽)もある。
アニメファン、アメコミファンのためのサイトのようだが、「ハイスクール」と仮名表記なので、日本人が製作しているかというと、そうではないらしい。CEOはパーキンス・ミラーさんという方で、居並ぶ役員に日本人が見当たらない。
ともあれ、”is”であるので、
活用形 coûte フランス語の動詞活用 | Revorso
フランス語と比べてみた。
- je coûte,tous coûtes,Il/elle coûte
nous coûtons,vous coûtez,Ils/elles coûtent
であるらしい。何かね、このsin,cos,tanのみならず、arcsin,arccos,arctanみたいなものは。☞逆三角関数- wipedia※
それはそうと、”Le moindre effort lui coûte.”の”coûte”は単数形である。
petit,mauvais優等最上級としては,a,cにおけるような,plus を用いるふつうの形の他に,b,dに見られる特別の形がある(優等比較級についても同じ).前者は形容詞が具体的な意味で用いられている場合,後者は比喩的,抽象的な意味で用いられている場合に多く使われる
P.299,Ⅲ類似表現の研究,解釈,『フランス語ハンドブック』
つまり、”Plus petit”(petit の 比較級)である”moindre”が「比喩的」であるとの説明である。ここで文法の理解が求められるのは、
- moindre=Plus petit;(優等)比較級
であるところ、
- le moindre=le Plus petit;(優等)最上級
らしいことである。知らない。比較級と優等比較級、最上級と優等最上級があるらしい。ほかに同等比較級もある。
aでは形容詞の比較級が、bでは最上級が用いられているが,その区別は,定冠詞の有無,que と de の違いによって示される.ただ実際の文章では,que…,de…の部分が省略されることも多い.定冠詞でなくても,所有形容詞があれば(例えば,Voilà mon plus grand malheur.「それが私の最大の不幸です」,C'est un de mes meilleurs amis.「それは私の親友の一人です」)最上級である.cのように,「…で,…の中で」に当たる集団の構成要素が2つだけの場合も b と同様,最上級を用いる
PP.298-299,Ⅲ類似表現の研究,解釈,『フランス語ハンドブック』
「彼女の方が頭がいい」と言う場合にも「2人の姉妹のうちでは(des deux sceurs)」(c)とつくと、「彼女はクラスで(de la classe)一番頭がいい」(b)と同じように”le plus intelligente”となる。
そして、
- C'est ce qu'il a écrit de meilleur.
それが彼の書いたものの中で一番良いものだ.
は
ce que…「…のもの」に形容詞が付くときは,〈rien(quelque chose)de + 形容詞〉と同じく、de を必要とする。bは形容詞の最上級がついた場合.〈ce que…de + 形容詞〉の場合に限って,定冠詞,所有形容詞なしで最上級になる.
PP.299-300,Ⅲ類似表現の研究,解釈,『フランス語ハンドブック』
と説明されている。これがよくわからない。”de”は of だろう。”ce” は定冠詞ではなく、指示形容詞 its (その)らしい。”il” も it「それ」であるらしい。”a”がよくわからない。
【フランス語・指示形容詞】ce・cette・cesはどう使う?【この・あの・その】|キースすずきのフランス語がっこう
【違いを解説】ilとc’estの違いは?具体例を挙げて解説していく【描写or紹介】|フランス語学習ライオンさん
なるほど、”C'est”と”il”とでは、クラスが違うのではないかと思った。
”a”がわからないが”à”のことかな?
【フランス語】avoir「〜を持っている」の意味・使い方|French Lesson
ようやくわかった。haveを意味するavoirが三人称のときに”a”になるようだ。
強調構文C'est ~qui…であって、
- 【強調構文】It's its which he has writting of best(ただし、無冠詞)
”ce”(its)は”de meilleur ”(of best)を指すらしい。
何か不思議な文章だ。
- This lake is deepest at the point.
This point is deepest in this lake.
英語の強調構文だと、thatを準備するのだが、そういうことだろうか?
構文上itsを補語としたときに、それは、whichの方が自然に感じられる。”C'est”は文脈からは自由な「束縛(独立)変数」を用いた「紹介」だとすると、”ce”は文脈上の「自由(従属)変数」を指示しているような気がする。そのときに、”de”で、クラス化されている。クラス化して「同定」するときに、ce~de…となるのではないか、すなわち[同定の指示its]+[クラスの指示de]である。このとき”C'est”は”ce”と「同定」できる(C'est ↔ ce )。
pを of ( off )によって「p」化、すなわち of こそがクラスのマーキングだったらしい。
of のコアイメージは「背景を作り、その支配下に置く」です。
A of B は「A の背景に B がある」という構図であり、「A は B の支配下にある(A は B の影響を受ける)」という関係を表します。
つまり、the tallest one と one of the tallest とでは、後者は the tallest が意義付けられてクラス化されているようだ。そのうえでそれが「同定」される機序を持つことが言及されるらしい。
- ∀y∃x(y>x)
- ∃x∀y(y>x)
- ∃x(∀y(G(y)↔x=y)∧F(x) )
この3文を比べると、3はアリス文だが、1では、要素は対象化された「外延」であったところ、1をクラス化して「包含」している。
すなわち、1においては、{∀y} とは、{y1,y2,…} であり、1⋀2が「ない」(1≠2)ように、それは任意の i,j を用いて yi∨yj である。厳密に正しいかはとりあえず置く。
2が自己言及するがゆえに不可能であるとき、「同定」の機序をもとより構成することで、それ(自己言及)を可能としているのだ。この「それ」がその the である。
イメージとしては、所有格形容詞による最上級に近い。この「それ」(the)は実のところ his(its)である(にも関わらず最上級である)。
- ∀∃(G(∃))
- ∃∀(G(∀))
- ∃(∀(G(∃)↔∀=∃)∧F(∃) )
乱暴に書いてしまうと、こういう「感じ」になるだろか。
このとき、()が of ならば、2は ∀ of ∀なのだが、もとより ∃ of ∀なので、同定されないところ、同定することをあらかじめ含意しておくのだろう。
ε-δ論法は、こうである(イプシロン-デルタ論法 - Wikipedia)。
例えば
を ε-δ論法で考えると次のようになる。任意の ε に対して δ = √ε + 9 − 3 と取れば
言い換えると、
- ∀ ε ∃ δ(∀x(δ =G(x))∧F( δ ) )
だろうか?自信はない。
自信がないのは、もちろん、そのひとつに、ε-δ論法の説明に在る「⇒」を「⋀」で言い換えていることがあるからだが、この論理関係においては、「外延」を「包含」化(してなお、「外延」として排出)すること(自己言及)にその目的があって、それを B→A から ¬(A⋀¬B)を導くことに、∀と∃の関係から、手間取っているためである。
しかし、こういった説明順序を設けると、理解の見通しがよくなるのではないかと思う。つまり、「誰でもわかる」説明を志すとき、大抵は、「具体的問題を挙げる」のだが、その前に言えること(具体例;前提や中名辞と成る命題)が「ある」と思った次第である。
※今でも精神的な負担となっている思い出に、中学の時の話がある。小学校のときから、本当に嫌だったのだが、(たぶん、僕らのような児童に向けての)不意打ちによる「教師の質問」があって、これなどは「精神的暴力」だと言ってよいと思うのだが(今でも心底嫌な思いになるのがその証左だ。「教師」は笑うだろうが、「笑われる」と思うと、正直に言うと、〇してやりたくなる。実行レベルの話ではなく、これなどは「精神的レイプ」であるから、要は憎悪感情だ。「笑われる」のが今でも心底嫌いである。
話は飛ぶが、「底辺」に行くと、冗談ではなく、「レイプ」が支配のための「有効な具体性(手段)」なのだ。人間性が未熟か、摩耗している、とはこういう世界の話である。そして、実際にそれは「ある」。「執拗である」ことが最大の攻撃である。何しろ、元手がないために、「火のないところに煙を立てる」のが、唯一の「仕事」だ。
元に戻すと)、逆三角関数について、まずは逆数で答えたのだが、説明に在る通り、幾何的理解に変えられるので、相当する、と言えることが「ある」。逆関数を「説明してはならない※」ためそれを「違う」と執拗に繰り返すのだ。
※教えてはならない制度的な縛りがあったためである。いや、実のところ、「通じる」ことができる「インナー」は限定的に「居る」のだ(その存在を明言されないが、仄めかされるという仕方で伝えられる)。古典的組織形態乃至社会形態では、この「インナー」になれるかが社会を生きる「ひとつの鍵」となるのが明らかだった。
こちらは「何となく」もやもやとしたものがあるが、自分で定義づけられないために-いや、実のところ、小学生の時にすでに、対称間の逆操作を発見しており、そこから、「回転対称」を、複数操作で「自己」に戻ってくる操作であり、したがって、逆操作と同義になること、すなわち、左右も右左も同じであるように、右回転も左回転も同じであることを—基礎づける(すなわち、「発見」する)ことが自力でできていたのだが、いつだって自分のイメージの拠っているので、他人から言われると、語義で混乱するのであった—具体性で云々するしかなかったのだ。
この(小学生の段階での理解にあった)「「自分」に戻ってくる」を(「点」から、その集合である)「域」(定義域/値域)のレベルで考えられる「発展的理解」がこのときは必要だったのだが、今では正直になれるが、混乱したのである。
今ではネットがあるから、6つの図形の「戻り方」が「わかる」。集合化されることの具体視である。
あれは間違いなく「レイプ」だった。
僕らは何度も教師からそういう目にあうのである。
「彼は「わかった」」と言われるとき、その指示する真の意味が「彼は耐えられる」だからである(つまり、「最初はみんな辛い(が慣れる=慣れろ:命令形)」と同系統である)。
本当は「退屈」なんかじゃない。「無感情」だ。
兄なんかだと、それが毎年一人だけ受ける「知能検査」だった。
彼は心底嫌がっていた。受けるとわかるが、実は、精神的に相当の負荷がかかる(ネット上のゲームではないのだ。学校で受けるものの、そういった意味で、「緩かった」と思う。集団だとある意味「無責任」になれる。ここで云っているのは「お前」と名指しされることの閉鎖的な攻撃性だ。兄と私は、別様に、それを大人から受け取っていた)。
だから、大人になれて、本当によかったと思っている。
森さんは、それほど尊敬していないが、「早く爺さんになりたかった」というのは、共感しなかったが、共感した。年寄りになりたいわけではなかったが、大人になって「よかった」(大人になってから)と思えた。大人から自由だからだ—大人になるまでそれがわからなかったからだ。
何が言いたいか。
こんなどうでもいい思い出でも、「クラス」を考える糧にはなっている。
「点」ではない「クラス」だからだ。
ようやく浄化された気分だ。
勉強をする理由が自分にはあったようだ。
大人になって本当によかった。
誰のおかげでもない、自分のおかげである。もちろん、親には感謝しているが。
ジョンの「叫び」が彼にとって具体的であっても、正しかったと思えない。
本当に「マザー」だったのだろうか?
「マザー」という言葉しか持てなかったことが、戦後のある様相なのだ。
今の児童、生徒には、なかなかピンと来ないかもしれないが、それは社会の暴力のタガが少しずつ緩んできたからだろうと思う。
社会は徐々によくなっているのだろうと思う。
日本語(文法)が「難しい」と言うのは、希望的な「ファンタジー」であって、文化的な意味であるとよくわかる。
なぜなら、英語も日本語も、格変化が乏しいからだ。
日本人にとって、「日本語が難しい」ものであって欲しい(なぜなら、日本語話者である「日本人」である自分が、あらためて勉強するコストを省略したい)という期待である。
すなわち、「日本語が難しい」は(文化的に)「排他的である」と同義であるため、共同体の支配に関する社会の問題である。
日本語はおどろくほど単純で、ある対象(群)を以て概念を構成したとき、要は、1を「1」と呼んでもその「」もひとつである以上は考えなくて済むのだ。このとき、3を「3」と呼んでもひとつの「3」である。
だから、日本人が英語を見ると、「3」を、(対象の)3で数えたらよいのか、(「」の)1で数えたらよいのか混乱するほど、日本語はシンプルである。どっちでもいいじゃねえか、概念について言及できれば、という話である。
フランス語ならば、言葉の「方程式」なので面倒くさいが、英語はどうも説明の間を端折って簡便化してしまっているような印象を受ける。
いきなりdeepest at the point、いきなりthe least of my demerits meritのような印象を受ける。
よくよく見ると、its deepest(このとき、its は所有格形容詞と同義の働きをしているため、冠詞について言えば、無冠詞で最上級)なのであるし、of の機能により「ある傾向」を以て構成され(背景化された)クラスとなっている。
つまり、英語は、3者のうちで、もっとも簡便な日本語と、もっとも面倒なフランス語の間の「ええ加減」な感じを受けるのであった。
日本の4原色{白、黒、赤、青}を考えると、似たような構成を採れる。
二次化されているからだ。
- 一次対象である { 白,黒 } 2色の比較で最も明るい色は、{ 白 } である。
- 二次対象である { 赤,青 } 2色の比較で「最も明るい色」は { 赤 } である。
- したがって、最も明るい色で、或いは否定的に、言及される対象は { 白,赤 } の2色である。
このとき、「∀の色」が文脈化できているのではないのか。
1を白黒を対称とする「輝度」(ただし、「白」とは所謂「白色」というより光の量のことである;光が多寡で量られるイメージである。)、2を赤青を対称とする「明度」(波長の長さがイメージに近いだろうか;波が長さで量られるイメージである)と仮に名づけると、
- ∀ 明度∃ 輝度(∀輝色(すべて輝色は輝度を持つ)∧或る輝度は明度を持つ )
と文章化できるだろうか。できれば「幽玄」と言える。「幽玄」が”no light”と言わないところが味噌である。
そのとき、クラス化が量化を意味している。
つまり、数はそれ自体元来量であったところ、二次化するにあっては、数は順序を指示する表示になった。表示自体に「表示である」以上の意味はない。
そのため、あらためて「数を以て量を構成する」必要が出てきたのではないかと思う。
”the least”(「最も少ない」と)は、表示を以て、二次(クラス)化された「量」を指示していると思う。
- C'est ce qu'il a écrit de meilleur.
それが彼の書いたものの中で一番良いものだ.
は”C'est”が、”écrit”を対象としたクラス”de meilleur”の「包含」に於いて”ce ”を同定できる。アリスが「女の子」を対象としたクラス「面白い(子)」の性質において(そのうちの)「或る子」と「同定」できるように。