Francis Sauveur(PP.5-6)

 

例えば、母に対する崇拝は、ユダヤ文化の中に強く根づいている伝統です。これはおそらく、聖書の中で前面に出ている(いわば)「公式の」諸価値に対する埋め合わせの役割を持っているといえるでしょう。

P.56,注釈 (4) ,2 陰(イン)と陽(ヤン)の鍵,『ある夢と』

アレクサンドル・グロタンディークの母親はドイツ系のユダヤ人だったらしい。

私の両親—母と父—のそれぞれの人格の中での支配的な諸価値は、陽(ヤン)でした。意志、知性(知的な力という意味で)、自己のコントロール、他人に対する影響力、非妥協性、「コンゼクヴェンツ」(ドイツ語で、自己の意見、とくにイデオロギー的なものにおける極端な一貫性を意味します)、政治と実生活のレベルでの「理想主義」・・・といったものでした。母にあっては、こうした価値づけは、若い時代から極端な力を持っていました。これは、彼女の中の「女性」に対して、(そして、これから発して、一般に女性的な者に対して)発展させてきたまぎれもない憎悪の裏面でした。彼女の中での憎悪は、生涯を通じて隠されたままだったのですが、それだけにまた激烈さと破壊的な力をもつことになりました。

P.54-55,同前

Konsequenz だろうか?知らない。
アレクサンドルは、48歳から瞑想を始めたらしいが、その3年後にこのことに気づいたということだ。アレクサンドルは5歳までこのような環境に浸かっていたが、その後、グロタンディーク家は、1933年にヒトラーが政権を獲得したことにより、切り裂かれてゆくこととなった。

しかしながら、遠い時代のこの魅惑的な文書(引用者註:旧約聖書)を読むだけでわかりますが、これら「家父長的な」価値の優越性、女性に対する男性の優越性、あるいは、「身体」あるいは「物質」に対する「精神」の優越性は、相補的な価値(おそらく当時はまだ「反対の」、あるいは「対立的な」ものとは見られていなかったのでしょう)の否定あるいは軽蔑へ向かうこととはほど遠かったことが分かります(4)[P56]。

P.52,同前

どう「しかしながら」かというと、民俗学の用語で「家父長的な」と言われることが、「力を込めて(断固として!)主張されている」(P.52,同前)ことからの逆接だ。

 

『フランシス・ソヴァ―ル』の前段で「驚かなかった(n'étais jamais étonné:was never surprised)」と対比が示されたときに、この段で、”trahissent le homard”(ロブスターを裏切る)をどう理解するかだった。つまり、驚いたのだ。

そこで”éton(étonné)”(驚いた)を本文を検索にかけると、屈折したり、名詞形だったりするのも含んで、16か所出てきた—étonné (6)、étonnés(2)、étonnement(5)、m'étonna(1)、m'étonnait(1)、t'étonneras(1)。
これに「叫ぶ」に近いニュアンスの言葉を探すと、「感嘆詩」を理解できるかもしれない。

その2番目の”éton(étonné)”がこれである。

Quant aux traces de la passion, si elle avait passé par là , il eût fallu les aller chercher au fond de deux grands yeux noirs , tantôt vifs ou étonnés comme ceux des enfants, tantôt rêveurs, mélancoliques et touchants comme ceux des Madeleines du Guide.

P.41,Francis Sauveur

google翻訳

As for the traces of passion, if it had passed that way, it would have been necessary to seek them in the depths of two large black eyes, sometimes lively or astonished like those of children, sometimes dreamy, melancholy and touching like those of the Madeleines of the Guide.

赤字強調は引用者。
この du であるが、

名詞の中には、数えられないもの(不可算名詞)がありますね。

そのような名詞の前には、« du, de la »をつけるようになっています。これを部分冠詞といいます。

部分冠詞« du, de la »は、「名詞の一部分」を表したいときに使う
フランス語学校エコールサンパ

ということで、頭が大文字の2語に挟まれている。
Guide”が大文字なのは不思議な感じで、頭が小文字なのも含めて、本文中に8か所出てくる。すなわち、guider(4) 、guide (1)、des Madeleines du Guide(1)、de Guide-Richard(1)、des guides(1) で

フランス語では人称代名詞の目的語は「動詞の前」に置かれます。

東京外国語大学言語モジュール

最初、これにびっくりするよね。”la guider” の ”la” は直接目的語と成る人称代名詞(「彼女」:her)なんだね。
これが les じゃない。

北鎌フランス語講座

そうすると、”des Madeleines du Guide”の ”Madeleines” は何なのだろう?となる。
マドレーヌではないだろう。

マグダレナ、マグダレーナ(Magdalena)は、ヨーロッパ系の女性名。マグダラのマリアに由来し、ドイツ語では異形にマグダレーネがある。また、マドレーヌ(フランス語)、マッダレーナ(イタリア語)などに対応する。

マグダレナ - Wikipedia

そうすると、”du Guide”に何となく察するものがあるが、なぜ複数形なのだろう?

英語には不定冠詞が a/anしかないのは、もともと one乃至loneから、

古英語の数詞「ān」(「one」「lone」)の弱い(強勢がない)形として、中英語で「an」が用いられるようになった。

英語の冠詞 - Wikipedia

それで、

個の標識としての不定冠詞

ということであるが、

定・不定とは,その表現の指しているものが文脈上話し手や聞き手にとって既知か未知か,特定されるかされないかといった区別のことです.談話の典型的なパターンは,定の要素をアンカーとし,それに不定の要素を引っかけながら新情報を導入していくというものですが,このような情報の流れは情報構造 (information_structure) と呼ばれます.言語は情報構造を標示するための手段をもっていると考えられますが,語順や冠詞もそのような手段の候補となります.

#3831. なぜ英語には冠詞があるのですか?|hellog~英語史ブログ

フランス語には、不定冠詞の複数形がある。
これなどは、「リアリティー」に関して、概念/実在から抽象化/一般化と考えると、何となく腑に落ちるが、

des bouteilles / ボトル

複数形の名詞に形容詞がつく場合は、desがdeに変わります。

Ses parents ont acheté de bonnes bouteilles de vin pour Noël. / 彼の両親はクリスマスにいいワインを買いました。

不定冠詞« un, une, des » は名詞を一般化できる
フランス語学校エコールサンパ

なぜかね。
「抽象的な意味での「ガイド」」の「実在的な意味での「マグダラのマリアたち」」
どういう意味だろう?比喩だろうか?

”Madeleine”で検索すると、もう1か所ヒットし、10ページ後にこのような文がある。

Quand je débouchai sur les boulevards déserts, je fus saisi par un magnifique soleil qui, les prenant en longueur, semblait s'efforcer de réveiller cette large solitude.
Flâneur comme je suis, je me mis à descendre vers la Madeleine, m'amusant à jouir de cette promenade solitaire dans un lieu d'ordinaire si encombré, me figurant que les boulevards m'appartenaient, et que j'avais seul le droit de m'y promener.

P.51,Francis Sauveur

これはどうも、

ラ・マドレーヌ
La Madeleine
フランス
〒61500 ラ・シャペル=プレ=セ
Google map

地名のようだ。

J'ai dit rapidement, en mêlant un peu les mots et en me rendant compte de mon ridicule, que c'était à cause du soleil. Il y a eu des rires dans la salle.
P.158,L'étranger Poche – 1 décembre 1971,Albert Camus (Auteur)

Séance 3 Le meurtre de l’Arabe (éléments de correction) | Mariage Chef privé

これは有名な「太陽がまぶしかったから」を含んだ一節で、アルベート・カミュ『異邦人』からだが、原文を読むと、イメージが大分変った。
なぜなら、「太陽」とは、元来リアリティーの代名詞だったからだ。すなわち、a sun   では、ギリシャ人が「そのような太陽(太陽系以外の恒星)は数え上げられない」ことを以て非現実性の比喩としてきたが、反対から言うと、「太陽」と素朴に言われるあの恒星が「数え上げられるひとつの ”the sun”」として輝いていたことが保証されていなければならない。

基本線質問者さんのお考えで間違いないと思います。宇宙の恒星の話(i.e. 複数のsunが存在するかも)なら、a sunでいいが、通常はsunはuniqueで一つしかないため、the sunというのが普通と思います。 が、牧場に動物や太陽の絵を見せながら、what’s this?と聞かれたら、a sunでもさほど違和感はありません。The sunでももちろんOKです。恐らく、絵に描かれた太陽なので、the sunではないからです(実際の太陽ではありません)。

a sunとthe sunの使い方について教えてください|eigoQA

英語とフランス語は違うのだろうか?知らない。
ここで中心的役割を果たしているのが、”du”という部分冠詞で、不可算な男性名詞に前置される。

ソレイユ(soleil)の意味とは?太陽に関するフランス語を紹介 | BIBLIETTE

「シルク・ド・ソレイユ」も「太陽がいっぱい」も定冠詞 ”le” はつかない。
これは「そういうもの」なのか、やはり、概念/実在(抽象/一般)図式で言う、概念(抽象)の指示だろうか。
少なくとも、カミュの文では、明らかに「数え上げられるもの」と対置されている。
太陽がいっぱい」(直訳)でなかったのと反対に「太陽がまぶしかったから」(意訳)ではなかったかもしれない。
ここで”que”の接続の意義が問われる。どういう意味だろう?
英語における、従位接続詞として副詞節を導いて推論・判断の基準を示す that と同じでないのだろうか?
”c'était”(it was)が ”ça devrait être”(it should be)でないのだ。

What have you done to him, that he should be so disloyal to you?
彼が君にそんなに不実なんて、君は彼に何をしたというのですか

Are you mad that you should say such a thing?
 そんなことを言うなんて君は気でも狂ったのか

P.1841,旺文社

赤字強調下線強調は引用者。

”ridiculous!, that should be Sun”(馬鹿げている!「太陽」だなんて)のはずである。
つまり、太陽なんて数えられない(抽象的意義な)のだ(実物は、数えられる)[note]。
だから、カミュは「明証性の哲学者」なのだ。そして、実存主義と誤解される「反抗の哲学」だったのだ。カミュの「反抗」は具体的態度、、のことであって、具体的対象、、のことではない。この差に在る、、「評価」に関して「太陽」が源泉だったに過ぎない


[note]文法について;☞ ”quelque”:some で繋がれている

« C’était » ou « S’était » ? | PROGRESSER EN FRANÇAIS
(引用はじめ)

Le « C » du verbe « être » est utilisé à l’écrit pour décrire ou présenter quelque chose. Tandis que le « S » du verbe « Être » est utilisé pour décrire ce qui est sien.

Il s’est fait mal à la sortie de l’école
→ Je me suis fait mal = s’est

C’est dommage que tu ne puisses pas le faire pour moi
→ Cela est dommage = c’est

L’homophone « c’est » peut être introduit dans une phrase lorsque l’on peut le remplacer par «  cela est…». Tandis que l’homophone « S’est » peut être introduit dans une phrase lorsque l’on peut le faire suivre d’un « participe passé ».

(引用終わり)

à l’écrit”:in (the)writting と ”chose” :object が ”quelque”:some で繋がれている。
挙証のことであるようだ。
だから、”remplacer par «  cela est…»”ということらしい。

さて、

chooseとchoiseってスペルも意味も似ているのですが語源は一緒ですか?? | yahoo!知恵袋

前者は「(自らの道を)選ぶ,行く」,後者は「選別(判別,識別,弁別)する」ということになろうか.前者については,古高地ドイツ語やフランス語の対応語にも類似した語義があるという.

#1058. 中英語における choose の多義 | hellog~英語史ブログ

Google翻訳で”chose”を単語検索すると、

  1. Réalité concrète ou abstraite perçue ou concevable comme un objet unique.
    《Voir, percevoir, imaginer une chose.》
    同義語:
    êtreévènementobjet
  2. SPÉCIALEMENT
    Réalité matérielle non vivante.
    《Les êtres, les personnes et les choses.》
    同義語:
    objet
  3. SURTOUT PLURIEL
    Ce qui a lieu, ce qui se fait, ce qui existe.
  4. (AVEC DIRE, RÉPÉTER, ETC.)
    Paroles, discours.
    《Je vais vous dire une bonne chose.》

と出てくる。今回は1が該当するだろうが、抽象でも具象でも”re・ceive”にも”con・ceiv・able”にも使えるらしい。”conceivable”自体、古期フランス語から来ているらしい。

印欧語根 kehp-(取る)が語源。

conceivable 意味と語源 | 語源英和辞典

ということである。
ここらへんは「主体」「主語」の区別とも平仄が合いそうで興味深い。
『異邦人』の主人公のムルソーは、なかなか凝った説明をしているのである。
「書き言葉」を「法廷言葉」で演じながら、「(単に)太陽がそこにあるから」ではなく、「抽象的な「太陽」を挙証事実として、自ら選び取っている」様が描写されているようだ。そして、それが「馬鹿げている」ことがわかっている。
このとき、カミュが、”réalisant(réaliser )” ではなく ”rendant compte” を使っている。これは「数え上げる」ことらしい。前者は「至る(現れる)」ことらしい。Google翻訳で、”realize”と言っても若干のニュアンスの違いがある(なお、前者は仏→英→仏と復(複)翻訳してみた結果である)。

 

ムルソーが言いたかったのは、”de mon ridicule” という ”l'exclamation d'Horace” が ”hasard”に関係していることだろうと思う。

7:24
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

ローマ人への手紙 (口語訳)-ウィキソース

カミュは、「反抗の哲学」なのだ。それは死せる言葉ではない。
以前は、カミュの「明証」とは「見える」「見えない」ことを意識することだと思ったが、より言語学的な意義があったようだ。

現在、本人にはまったく必要でない花で埋められている、場所ふさぎなこの「死者」に対しても、また、これらのページの中で、いかなる時点でも、真実のことばをひとつも発することなく、この種の機会にあたって、いつもの花火を打ち上げている人たちに対してもということです。

PP.626,訳者あとがき,『ある夢と数学の埋葬』

とグロタンディークは友人への手紙に書いた(強調は元の文のママである)。
ちなみに、死者に対しても、”chose” を使う。
これはグロタンディークの「怒り」であって、ムルソーの「怒り」ではない。
グロタンディークは、自己の業績が取り上げられた著書の献本を受けたときに、業績を取り上げるにあたって自分に意見が求められなかったことを「残念」だと言ったのだ。
本の中で「栄誉をあたえ」(同前)られてもそれは「(「廃墟」と化した旧理論体系の中に安置された死せる諸理論を埋葬する為に供える)花」であり、結局いつものように(或いは、葬送の、だろうか)「花火」をあげるだけにしかならないと皮肉っている。
ムルソーの場合、それが、(「栄誉」と対義的であるが)”des rires”(嘲笑)だったのであり、法定の中で”Il y a eu  dans la salle.”なのだ。
グロタンディークはそれを「廃墟」と呼んだ。それは献本(旧理論の編集)のことであり、「花」とは献本中の賛辞であり、「死者」とは献本中のグロタンディークへの解説である。かなりの皮肉である。要は、「俺の理論を殺してくれるな!」と怒っているのである
ムルソーにあっては、(「埋葬に参加」とは)弁明であり、(「栄誉」ではなく)”de mon ridicule”であり、(「死者」とは)”à cause du soleil”であり、(「花火」とは)”J'ai dit rapidement”である。
真実のことばをひとつも発することなく」が、ムルソーにあっては、真実の言葉など発することができただろうか、という態度表明にしかならない。
それが「反抗」である。


フランス語の原文を読むと、「太陽がまぶしかったから」が実存主義ではないことがわかる。むしろ、デカルト的な実在主義の方が近く、しかも心身二元論と言った方がわかりやすい(が、心身二元論が、神学の下にあるので、そもそも日本人にはわかりにくい。デカルトの場合、動物論—人間がなぜ人間なのか。人間の特権性ーの裏返しで、被造物という意味では一元的である。要は、神>人間>動物の順を考えたに過ぎない。あくまで神の下における理由付けである。何がわかりにくいかというと、「観念的」というのが後世の後付けに「なる」という点で、デカルト自身は、言葉も身体も「被造物」である点に変わりはなく、言葉が媒介である点で、アンセルムスを過去においやったのである。アンセルムスの「論証」はあくまで神自身の何かしらであって秘跡である。人間はそれを知ることができるという神の下にある限界において「理性的」である。近代的な意味で論証しているわけではない。デカルトは要はキリスト教における自由意志論であって、神の下での限界が自明ならば、適切に「考えれ」=「産め」ばそれもまた神の被造物だと喝破したのに過ぎない。近代的な自由意志ではなく、ギリシャ的な産婆法である。アンセルムスが言葉を「産む」のはマリア的であって、「授かる」と言った方が近いと思う。そのときマリアに自由意志はなく、神から一方的に「授かる」だけである)。

カミュ無神論者だったそうだがそういった意味でデカルトに近く、或いは、ヴィトゲンシュタインに近かったかもしれない。要は、「言えないことが「ある」」ということである(だから、せめて、、、態度で示す)。ヴィトゲンシュタインだって、ずいぶんと信心深かったのだ。カミュの場合、無神論者だったらしいが、係る「神話構造」だけ拝借したようである。
「実存」というと、主体性の問題だが、カミュの場合、主語性の問題である。「主体」には「言及できない」から「主語」から抗うしかない、ということである。
カミュサルトルに論難されたが、サルトルクロード・レヴィ=ストロースに敗北したのは、こういった理由であるようだ。
構造主義に関しては、アンドレ・ヴェイユが数学の指導を担ったが(そう言えば、シモーヌ・ヴェイユは「重力」を説いた。)、グロタンディークが瞑想で言っているのも、それである。要は、幾何的なのだ。


日本の国語では「主体」と「主語」を区別する習慣がないので、カント以降の哲学が、基本的にわかりづらいこととなっている。

要は、元来、「主体」は神にしなかったが、徐々に人間にも「主体」があると考えるようになったところ、「本当に、人間に「主体」なんてあるのか(あるのは「主語」だけだろう)」と言っているのである。