フランス人の話は、どうしてこうも、ややこしいのだ。
素直に腹が立ったと言えないものかね。

要は、書き言葉が、body(ボディー)なんだね。
そこに「主語」がある。
『異邦人』の場合法廷劇で、そこでは弁明という話す「言葉」だけれどもそれも「ボディー」として書けるってことだな。
だから、「死ぬ」「生きる」と表現される。その差異に「真実」が意味づけられる。

意外に、フランス人は、似たようなことをよく言っている。
それは助かる。

「太陽がまぶしかったから」って妙訳だと感心するけれど、別にアンニュイな感じだったのか、斜に構えていたのか知らないが、本心では、「ワシャ何を言うとんのや」ってなっていたのであって、「不条理」と名付けられて実は「不可視な他者」を主人公にしたがる社会性(日本社会に於ける「変態」の系譜)とはニュアンスが異なるように思える。日本人が「何を考えているのかわからん」と言うとき、「なぜ(できるのに)しないのだ」という責任への非難感情(憤怒)と、「わからないのは不気味だ」という非共感への嫌悪とのどちらかが、はっきりしない。「不条理」というとき、後者に近づいているのだろうと思う。いずれにしても内心の問題である。

太陽がいっぱい」も実はただの「炎天下」のことのようで、日本人が「太陽がいっぱい」と聞くとそうとは言わないが「胸がいっぱい」みたいな心情を添えるか、少なくとも、心象風景を読み取ろうとするだろうけれど、そうではなくてただの写実なんだね。

 

「太陽がまぶしかったから」の方は「上手く言えない」から「上手く言わされている」ことの源泉が本当は焦点化している。それは具体性を超えているだろうという話である。嫌が応にも何かしらに従わされているから、この「従う」ことが具体的表現を伴ってはじめて「従う」であるなら、その経緯をしっかり「見る」ことが「反抗」として大事だよってカミュは言っている。

ただ、本当に「太陽」の不可算性が、日常会話でも「不可算」的なこととして使われているのかよくわからない。区別なく使っているかもしれない。
ただ裁判で、「「太陽」を証拠として提出します」って「何言ってんだ」って話で。※証言は裁判上の一つの「証拠」(として取り扱われる)。