忘れそうなので、思い付きをメモ

リーマンが明らかにした、自然数の総和に2解ありうるということ、すなわち、

  1. 1+2+~=∞(算術的解法)
  2. 1+2+~= - 1 12 (解析的解法;解析接続)

これはカント―ルの対角線論法が、二値の積に係る実在問題だったことを考えると、すなわち、〈有/無〉の判断が対応関係に係り、(A=A;同意律を前提として)〈同/異〉⋀〈当/否〉、すなわち〈A∨¬A〉⋀〈T∨F〉(ただし、Fは¬T)のとき、対称性を利用して発散させたのが対角線論法であり(操作を以て、元の数に帰着しない。)、対称性を利用して収束させたのが解析接続である(操作を以て、元の数に帰着する)。簡単に言うと、「¬A」という言明は、「¬」と「A」から成り、「¬」が「Aに対する評価」と「Aに対する操作」から同時に認識されるとき(Aに「付加」する操作を与えてはじめて、Aと対称化される評価を与えることができる;付加するかしないかが—実在として—対称化されるかされないかと同等の意味を持つ)、具体的には、「−1」は「1」に「マイナス」を「付加」する操作を与えることで認識される数の実在だが、これは対照的なので、事実上の逆操作を与えることで、「−1」は「1」に帰着する。要は、絶対値は等しい(とき、「絶対値」という操作を「付加」することで、同じ実在を含意する数とみなすことができる;−1≠1にも関わらず、「マイナス」の対称性により、|−1|=|1|;「対称性」とは或る操作を繰り返して自己に帰着する性質であることを主張している)。

ガリレオガリレイ(実際のところ、無名のこの男。実は、「あの村」の「おっさ」くらいの 呼び名、、、 でしかない。「おっさ」とは長男を指示している。長男とは属性だが、その認識を括弧に入れて呼びならわした風習があったということである。)は、個々の自然数にはそこから当然に平方数を作ることができるが、このとき、或る自然数は或る平方数と1対1の対応を持つと認識できるとき、この平方数も自然数であるので、自然数の大きさと「平方数」という自然数の大きさを比べたのである。結局は、「自然数の大きさ」と「自然数の大きさ」という 同意味の言明を比較して、、、、、、、、、、、なお異なる、、、、、という矛盾が生じることを素朴、、、、、、、、、、、、、、 に指摘した。これが現代的につながる「矛盾」の嚆矢とされている。この「ある操作に係る1対1の対応を(等しく)自己に持つ」ことを「無限」の定義としたのがデデキントということである。これを持たなければ「有限」とした。

無限と無限を比較するとき、その「無限」この「無限」と、一意を以て言明の指示対象と成ることが鍵である。それら「無限」は実在の事実を以て説明されるのではなく属性を以て説明されるからである。「その性質を含意した無限」と「この性質を含意した無限」がそれ自体として有限の操作対象に係るということである。これを簡明に「文法化」すると「∃」を以て「∀」と成るということである(∀の中に或る「無限」がすでに含意されていることが味噌である。こうして、どの「無限」を扱うかが、どの「すべて」を扱うかの問題に成る)。

したがって、カント―ルとリーマンは同等の業績を持つ、ゲーデルチューリングがそうであるように。


ゲーデルの完全性定理は、モデル論と証明論を彫琢したことで知られるが、属性の同等を主張しており、第一不完全性定理は数学実在論に関する主張、第二不完全性定理は数学認識論に関する主張である。

数学に関して「認識」を主張したのはヒルベルトであるが、ブラウワーとの関係があったかどうか。なぜなら、ブラウワーはカントリアンだったからであり、認識論転回を為したのが、カントだったからである。

ヒルベルトの言及した「認識」は厳密に数学の話であるが、ゲーデルの言及した「認識」は哲学的話題だったのかである。これもヒルベルトと同様にやはり数学的言及だったと思っている。第二不完全定理が解釈問題だからである(第二不完全性定理ゲーデルが証明したのではないと理解されているが、同等の評価を得られないにせよ、ゲーデルはその拘り癖から完全な体裁を持つまで発表を躊躇していたという事情もある)。