50歩100歩

「五十歩百歩」は孟子が由来らしい。
これは戦国策である。

 戦場で、50歩逃げた兵が100歩逃げた兵を笑った。

通常は、ここで訓戒を垂れるのであるが、

 戦場で、50歩逃げた兵が100歩逃げた兵を笑った。
 その評価を王に問うた。

がセットであって、意外にその意味は大きいと思う。
例えば、競馬の趣味がある王に問われて、上中下の能力差のある馬に対して、下上中の馬を当てると献策するにしても、それはどこまで有効だろうか。ちなみに、プロ野球では登板予定も明かさないことに拘った監督がいる。興行として永続事業を営む妙である。
それでもそれが優れた宰相の献策として述べられてる。ここに中国文学の妙がある。
献策が優れている以上に、優れた宰相の献策として例示されているのだ。主語がヒトなのであり、能力は主語を飾る修辞に過ぎない。
孟子は王に何を問いたかったのか。
むしろ、王に王(ヒト)として何を問いたかったのか。
つまり、ここで「逃げる」とは、そのような文脈で語られているのである。

さて、生徒たちは「ダブルスコア」と笑う。
なるほど、まことに功利的な解釈で(現代的な)意味があるし、「50歩100歩」の持つ皮肉に反応してそれを皮肉っていて機知を感じる。
「『50歩100歩』ってバカじゃね」と言うのであるが、高みに立つことなく(べたに)言うので、「わかっていない」と云われるのであるが、それすら皮肉っていることになる。すなわち、笑う「50歩」の兵のみならず(登場人物への皮肉り)、そのようにして「50歩100歩」自体(既知の意味づけ)を皮肉ることで(世間への皮肉り)、既存の価値側に居る人を皮肉っているのだ(先生への皮肉り)。
これに説得的に、、、、言い返すには、かなりのエスプリが要る。

日本に赤穂問題あり、中国に塩鉄問題あり。

塩鉄論 (中国古典新書)

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  • 発売日: 1967/01/10
  • メディア: 単行本
 
福祉の経済学―財と潜在能力

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ちなみに、孟子の献策は(それほど)取り上げられていない。
そういうことである。


ちょとわかりにくいか。

 ☟替え歌の変遷

 そのたとえ話に恵王は「逃げたという事実は変わりないから同じである」と答えました。孟子は「その道理が理解できているなら、他国より多い人数を望むべきではない」と返し、同等の立場にありながら、相手を嘲笑う愚かさを表現したのです。ちなみに、当時の中国では国にどれだけの人民がいるかで争いをしていた背景があります。
「五十歩百歩」の意味と由来は?読み方と使い方も併せて解説
TRANS.Biz

 『孟子』には梁の恵王として登場する。ある時、恵王は孟子を招いて「私は洪水が起きた時はその地の民を移住させ、飢饉の時は食糧を与えるなど心を尽くした政治をしている。これほどまでに徳を施しているのに、どうして我が国の人口は増えず、他国の人口は減らないのか。」と訊ねた。孟子は「王は戦争がお好きですので戦争で例えさせてください。」と暗に皮肉った上で、戦場から百歩逃げた兵士を五十歩逃げた兵士が笑ったらどう思うか?という例え話をし、これが世に言われる「五十歩百歩」の故事成句となった。
 恵王の時代の魏は、韓・趙・斉・秦の四ヶ国を敵に回した事で戦争が増え、相次ぐ動員によって民は疲弊していた。韓と趙は恵王が即位する以前から抗争状態にあったが、斉や秦とも敵対したのは恵王の野心が招いた失策とも言えた。孟子は恵王の好戦的性格を戒め、それを改めない限りどんなに小手先の徳を施しても無駄である事を暗に諭したのだった。 脚註

恵王 (魏)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 


要は、弱小国なら理想が採り入れられるだろうと仕官してみたが、なんかずれているって話。一見符合しているように見えるが、これは「底の抜けた」話であって。徳治は結果的な美称ならよいが、それを目指すべきなのか。👉宋襄の仁
つまり、施策においては現況把握、文章においては文脈理解である。ただし、評価は採用するパラメータに依存する。
それが上手いこと皮肉られている(そもそも孟子も皮肉っている!)から面白いと感じた次第。

まとめると、
『《戦闘の際に50歩逃げた者が100歩逃げた者を臆病だと笑ったが、逃げたことには変わりはないという「孟子」梁恵王上の寓話から》少しの違いはあっても、本質的には同じであるということ。似たり寄ったり。』とはgoo辞書だが、

寓話とは『教訓的な内容を、他の事柄にかこつけて表した、たとえ話。』とのことであるので、

 戦闘の際に50歩逃げた者が100歩逃げた者を臆病だと笑ったという逸話を引いて孟子が魏の恵王を(問答形式で、「あるべき姿」を)教戒した訓話から(孟子「梁恵王篇」)、少しの違いはあっても、(「あるべき」)本質からすると同じであることを指して言うようになった。またそこから派生して(もともとの含意は抜け落ち)似たり寄ったりの状況や事実をたとえるようになった。


であるだろう。