漱石の心情(おまけ)

 

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異性愛」 や「同性愛」という用語が生まれたのは19世紀であるが、18世紀の姦通も「異性愛」のカテゴリー のなかで安定した位置を占めるようになっていくのである。 

姦通・法・メディア ―18世紀イングランド女性史の叙述に向けて― 赤松 淳子*

 そうか。なるほど。

 

そのころの子規の様子は実はこんな風だったらしい

周知のように、子規は1902年、結核からの脊椎カリエスにより、35年の人生の幕を閉じる。晩年、布団から起き上がれず「今ははや筆取りて物書く能はざるほどにな」った子規は、「長きも二十行を限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり」と、自らも大きく関与していた新聞『日本』にて、『墨汁一滴』 を連載する。その終了後、引き続き『病牀六尺』を連載、死の直前まで続けられた。

漱石と子規の「硝子戸」 - ソガイ

 『墨汁一滴』の一文

春雨霏々。病牀徒然。天井を見れば風車五色に輝き、枕辺を見れば瓶中の藤紫にして一尺垂れたり。ガラス戸の外を見れば満庭の新緑雨に濡れて、山吹は黄漸く少く、牡丹は薄紅の一輪先づ開きたり。やがて絵の具箱を出させて、五色、紫、緑、黄、薄紅、さていづれの色をかくべき。

正岡子規『子規三大随筆』講談社学術文庫、1986年、95〜96頁)


追記(「友情」誕生以降の現代的問題)
http://ictj-report.joho.or.jp/201806/sp07.html