scio Latine.

民主主義のチャンネルって意味では、国会(帝国議会)に偏り過ぎてんだよね。

世界的に見れば、保険という金融技術と法制度の発達が資本主義と関係が深いということがあって、平沼騏一郎の関わった信託法と、それが日本をどう国際化したかに興味がある。

信託法・信託業法の百年 ――私法学の観点から―― - 信託協会

台湾銀行による「信託預金」の創出と影響―大正時代の金融イノベーションがもたらした日本信託業の発展契機―

信託設定行為の法的性質 - 信託目的による受益者意思拘束の正当性 -

これを理解するには、単に「英米法」「大陸法」という言葉ではなく、

こういった違いや、国際法の変遷に起きた立作太郎と美濃部達吉の論争、田中耕太郎の商法の理解に必要だった自然法の理解など(驚くことに、民法典論争をしていたころに、  などは「それは自然法ではない」と穂積八束に窘められてなお理解できなかったのだ)。

平沼ら「英米派」と傍流の司法官僚が大蔵省と成し遂げた事業は、日本が近世的な理解を脱した出来事だったのである。

信託法から手形法へ

満州中央銀行と朝鮮銀行 ―日中 戦争・アジア太平洋戦争期を中心 に―

  正徳の治 韓国銀行 台湾銀行 満州銀行 朝鮮銀行
            
           
           
           

商的色彩論の系譜 ――商法とは何かの問い――

これは「法学的誤謬」が非常にわかりやすい筆致で描かれている。

  1. 「集団性」「個性喪失」「営利的」の語彙上の問題
  2. 「方法」か「内容」かの方法論上の問題
  3. 「経済学的社会学的」か「法学的」かの評価(を巡るテキスト論)上の問題
  4. トートロジー」かの記号論上の問題

つまり、やはり、前段の信託法から議論を受け継いでいて、手形法は、要は、信託法に理論的根拠を与えたイギリスのヘンリー・テリー(Henry Taylor Terry)が参照したオースティン(やベンサム)の議論を発展されたものなのだ。すなわち、「19世紀科学革命(とその前段の数学革命)」の前後の話なのであった。
上の問題群に対して

  1. 「営利」というとき、すでに法則化された関係が採られているので、「集団的」「個性喪失」と必ずしも矛盾しない。
  2. 1でいう「個性」とは〈主体〉のことであり、文中の「概念」とは(テキスト外に立つ)〈主体〉間に共有される〈判断〉のことである。また、文中の「対象」とはこの「概念」のことであり、したがって「内容」を伴う。田中の謂った「方法」とは民法と商法を分ける「方法」のことだが、民法は当然にこの〈主体〉を措定しており、〈主体〉どうしで交わされる行為の〈判断〉の是非を規定することであるのは、「私的自治の原則」「権利能力平等の原則」「所有権絶対の原則」「過失責任原則」からわかる。商法が民法の特別法であるのは、この〈判断〉を〈評価〉へ方法論的に替えて、その際、〈主体〉をテキスト上の〈主語〉として記号化(すなわち、無個性化)しているからである。
  3. 〈判断〉をテキストに織り込まずに、主体から分離した(主語たる)〈対象〉が(述語を伴って)分岐する〈評価〉と関係づけられてテキスト化された形式を完備しているか。
    「あるべき」と「ある」の分別とは「あるべき」を問わないことではなく、「ある」に「あるべき」(とする〈判断〉)を所与のこととして内在させない(で、分岐を割り当てる指示をする)作為である
    c.f. 述語、自由変数、束縛変数 | 結城浩のお話
    (述語を用いた命題化による真偽評価;命題とは真偽を評価できるテキストである)
  4. ここで云われる「トートロージー」は、ラッセル(素朴集合論)のパラドックスに類似しており、自然言語に付随した素朴な判断である

という回答方針が示せる☟。

P459(2367)に「抽象的・一般的な概念の及ぶ外延」とあるように、それが方法論的な問題であるとの認識をうかがわせるが、法学上の議論の経緯を解説するのみで、その方法論が具体的に論じられていない。典型的な「法学の論文」である。
これは、もともとは、「国家」「法」を「必要悪」と捉えていたものを、トミズムを信奉して「善の器」と考えを改めた田中耕太郎のいかにも戦前的な限界だったと思う。
今なら「国家」が「悪」と捉えるのはリベラルだったのかと思いたくもなるが、これは、中国思想の方だろう。つまり、田中のような学識ある者にして、ようやく、近代精神に追いついた程度、すなわち、ポストキリスト教社会と謂える近代の前段にあった西欧的近世の思想を踏まえた近代に到達し得たのであった(中国思想に根差した日本の近世を脱して西欧の近代的近世乃至近世的近代、すなわち、後期近世乃至前期近代)。しかし、19世紀科学革命の成果を享受したモダニズムでもなく、その反発として世界を覆ったオカルトでもなく、あくまで日常言語の法学の限界に留まらざるを得なかったところ、ラッセルを批判し得たヴィトゲンシュタインを先達とするイギリスの日常言語学派とも異なり、素朴な判断を脱せなかったのであった。
だから、田中の「色彩論」はなんとなくモダニズムっぽいのであるが、あくまで主体的なのである。

フレーゲも「概念」をとうとう使ってしまった。
ヴィトゲンシュタインポパーの論争は、実は、論証可能性と反証可能性の違いである。何が違うか。ライプニッツニュートン微分観の違いである。
一般的に、ライプニッツの記号が使い勝手がよくて広まったと解説されるが、この「記号化」が論証の嚆矢だったのである。

ライプニッツも「債務整理」という法理論から入ったことが重要である。
記号論理はライプニッツに始まったのだ。
そして、ライプニッツの目標は、オイラーの関数論へと通じる「べき論の転換」だったのだ。オイラーは、デカルトの、代数的(方程式)方法を否定して関数で求められる超元数を擁護した。オイラーのそれは数学における「(神の)目的論」を脱する革命だったのである。関数で達成する〈自由〉を主張した。デカルトはやはり、中世の神学的世界の住人だったのだ。

ヴィトゲンシュタインポパーは、「無限小」を記号化するか、ユークリッドに由来する「取り尽くし法」における帰納法背理法)を方法的に相対化(二重に再帰化)して定義上「当然」と見做すかの対立と平仄の合う、経験を巡る問題だったのである。このとき、ラッセルは、その経験を勘違いした。それくらい演繹に拠るテキスト上の経験とテキスト外の素朴な事実を分別することが当時は難しかったのだ。ラッセルはそもそも、彼のパラドックスに見られるように、素朴さを隠さなかった。だから、反対に、ヴィトゲンシュタインの主張を素朴な事実でない神秘的な体験と見做した。
だから、ヴィトゲンシュタインは、「言えること」のすべてはトートロジーと見做す。
一方で、宗教上の信念を持つ。ポパーは、テキストにテキスト外の事実が真偽をもたらすと考える。真理値表を考案したのはヴィトゲンシュタインである。係る「真偽」を分かっていたことから、ヴィトゲンシュタインを方法論的ホーリズムと見做して解説したのはクリプキである。「真偽」は「真偽」であるというテキスト内部の貫徹からである。

👇ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』

後世の我々はヴィトゲンシュタインの主張を「概念化されなければ言及できない」と体裁よくまとめてしまうが、微分では「無限小」を概念化(言語化、記号化)しなくても言及できているのである。ヴィトゲンシュタインはそれをこそ認めなかったのだ。


☞メモ「が示せる」

関係ないが、日本語の問題として、「を示す」の述語を助動詞化すると「が示せる」であり、「を示せる」は表現の揺らぎである。

法学的乃至文学的とは、主体をテキストから排除できずに、判断を共有する、すなわち共感するしかないということである。
事実が「ある」とはこれほど難しく、それが〈判断〉に係るなら、〈私〉がそう理解することを指すのみで、法学に於いては権威に、文学においては暴力に依拠せずにいられないことである。

法学上は、意味論的な区分として「憲法の時代」「民法の時代」「商法の時代」「労働法の時代」「刑法の時代」があって、それらが一緒くたになった「マルクス主義の法理論」の時代があった。

第5章 構成要件該当性 六|因果関係司法書士 足立啓明

真実性の原則とは?意義や目的、相対的真実についても解説! | クラウド会計ソフト マネーフォワード

刑法の条件説から相当因果関係説を経て「危機の現実化」(客観的帰属論)への流れと会計の絶対的真実/相対的真実。

民法学における相当因果関係の理論についての本格的な議論は「ドイツ刑法学にはじまり,ドイツ民法理論を経て,わが国の民法学に学説継受された」とされている

P30,https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsis/2016/634/2016_634_23/_pdf/-char/ja

 

なんと驚くことに、刑法の定説となっていた相当因果関係説は、この生理学者の主張だったのである。

ヨハネス・フォン クリースとは - コトバンク

他方、クリースは、一定種類の行為はつねに損害を惹起するものではないが、しかし、通常、大なり小なりの場合にもたらすものである。したがって、ある行為は一定の結果をもたらすに適したものである観念、すなわち傾向をもったものである〔という〕観念が、通常の考察から生じる。したがって、法律学では、ある行為が「日常の経験則」に従えば一定の結果をもたらすものであるかどうかという観念で処理することができる。そして、その概念は確率の理論によって確固とした基礎が得られるという。

相当因果関係説を理解するための教材
名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山 茂
Ⅰ 浜上則雄『現代共同不法行為の研究』信山社(1993)288頁~292頁

1886年明治19年)『確率論の諸原理』
1888年明治21年)『客観的可能性の概念とその若干の適用について』

『客観的可能性の概念とその若干の適用について』で刑法への応用を詳解したらしい。

相当因果関係の理論は、むしろ、彼の確率研究の副産物だったのである

P12(548),規範の保護目的の理論(一),関西大学法学論集27巻4号

どういうことか。

さて、クリースは、相当惹起の考察の端緒を、 まず「蓋然性」(Wahrscheinlichkeit)と「可能性」(Moglichkeit)の概念に設定するのであるが、ここで、これらの概念の基礎となっているのは、「事実上発生したあらゆる事象は、それ以前に存在する事情の全体によって必然性をもって惹起されたのだ」という必然的因果関係の命題である。

PP12-13(548-549),規範の保護目的の理論(一),関西大学法学論集27巻4号

赤字強調は引用者
「必然性」から「可能性」と「蓋然性」を導く論法である(c.f.アンセルムス、ゲーデル)。このような考え方は、誰かに特徴なのではなく、ドイツ人が一般的に持っている発想であるかもしれない。
さて、こうなると、民法と商法の違いは、この主体の経験的知識に基づく「主観的蓋然性」と「普遍的一般的に特徴づけられた諸条件」においてはじめて成立する「客観的可能性」の違いによるものでないかと思えてくる。
サイコロを複数回振ったとき、5回目に3が出る蓋然性が1/6と云うが、その結果は「予め確実に決定されている」(P12)ことであり、それを事前に知らないから「蓋然性」と言うだけの主観的な判断なので、知らないだけのことに対して、可能性も同様で、3が出ない可能性もある、乃至、3が出ない可能性もあったというのは、客観的には言えないとする。突拍子もないことを言っているようで、実は

【統計学を学ぶ前に】3種類の確率の考え方 ―そもそも確率ってなんなの?― - Qiita

公理的確率論以前に(言葉足らずにも)、「同様に確からしい」ことを言わずに済ますと、こういう表現になるらしい。

何のことはない。民法の場合、不法行為論乃至過失論なのであるから、「経験上十分知っていればよい」のであるが、商法の場合、一般的諸条件として、会計原則が準用されるということではないかと思う。

ならば、なぜ、田中耕太郎がくどくどしく言ったかと言えば、やはり「科学観」の問題であって、複式簿記もまた「科学」だったに過ぎない(が、それは、現代的な意味での(自然)科学ではない)。ただし、このとき、その簿記が、公理的確率論とは別の積分上の経路を持っていることを伺わせる。民法はそのようなことまでは予定していない。
民法と商法の違いはおそらく、制度面では会計のことであり、原理的には積分に関するフォーミュラのことである

ただし、それは構造であって、実務ではそこまで求められていない。

大正9年から現在に至るまで、企業のコスト構造の基本となっているのは、1次関数の単利計算構造です。

公認会計士高田直芳:大正9年から時が止まったままの管理会計: 公認会計士高田直芳&会計物理学会計雑学講座

結局、現在の原価計算制度は、大正9年(1920年)に確立された損益分岐点分析(CVP分析)に、先祖返りするのです。

公認会計士高田直芳:大正9年から時が止まったままの原価管理制度: 公認会計士高田直芳&会計物理学会計雑学講座

〚信託の歴史〛
1900年(明治33年) 日本興業銀行法制定
          (「信託」の文言が初登場)
1904年(明治37年) 担保附社債信託法
          (日露戦争後に外貨をロンドン市場で獲得;平沼騏一郎
1912年(大正01年) 信託法・信託業法立法作業開始
          (信託会社の取り締まり強化要請、金融分業主義の確立)
1918年(大正07年) 司法省信託法の立案担当
          (富裕層の財産隠匿懸念、信託財産の受益者による費消対策)
1921年(大正10年) 信託法綱領・信託業法綱領承認
1922年(大正11年) 信託法・信託業法成立。相続税法改正
1923年(大正12年) 信託法・信託業法施行
          (信託会社の多くが廃業に追い込まれる)
1943年(昭和18年) 普通銀 行等ノ貯蓄銀行業務又ハ信託業務ノ兼営等ニ関スル法律   
          (信託兼営法。銀行による信託会社の吸収合併が進む)
1946年(昭和21年) 金融機関再建整備法制定
          (経営困難な信託会社が銀行へ転換。信託兼営法で信託銀行化)
1952年(昭和27年) 貸付信託法が制定
          (貸付信託が信託銀行の主力商品となる。信託銀行の長期金融)

なお、

臨時財政調査会は、大正十一年に特別委員会の税制改正案を討議したが、財産税の創設に慎重論が多く採決には至らなかった。なお、大正十一年の改正は信託法の成立にともない、信託財産への相続税の課税を定めたものである(史料51)。

解題|【第七巻】|租税史料叢書|税務大学校|国税庁

 

平沼の財閥嫌い、左翼等思想犯嫌い、警察、検察権力の強化は、ここら辺にも理由がありそうである。