平沼騏一郎と検察の躍進

Wikipediaは速報性に優れていて便利だけれど、内容を端折り過ぎていて、よくわからない。

アナーキーなんだよな。
これって、リベラル=アナーキーとまで言えないにしても、戦後のひとつの方向性ではある。例えば、医師法と権利としてのセカンドオピニオンの関係では、伝統講学的には、義務対義務であったところ、危険負担(中間利益の帰属)の関係から患者の利益が損なわれがちという主張が通って、あらためて「患者の権利」が確立したのであって、悪いことばかりでもないけれど、その後行き過ぎた面もあった。

一方で、団体自治の問題としては、ハラスメント事案とも隣接して、団体に対峙する個人の人権をどう救済するかを問われたときに、団体自治に基づく措置が代替司法に類する効果を持つのでので、(救済司法としての)国(公権力)の役割が期待されると思う。それが憲法の第三者効力とのひとつの折り合いの付け方ではなかったかと思う。

 

法は自然科学ではないので、演繹的(天下り式に)に、淳淳と説いていかないと、わからない。

弁護士が検察抜きで全部自分たちで仕切りたいというのは、ただの欲求不満で、それを知識人に訴えるのは、エリート主義に過ぎない。
困るのは、日本国憲法はエリート主義を否定しているんだよな。
私は立憲主義を学んできたので、この件に関しては、立法すべきだろうと思う。

 

markovproperty.hatenadiary.comらら

マルクス主義から考えるとわけがわからなくなるのだろうか?
すなわち、下部構造/上部構造から考えると。

そうではなく、団体の2側面から考えないと、わからないんだよ。
人の頭脳(精神的能力)と身体に値する、法人の定款(自己規範)と資本(財産管理)で、目的と行為の選択肢の関係から捉えて、その合理的な選択(の集まり;行為の外形)から(隠れた真の)目的を推測するのであって。
むしろ、理性の働きから人を分別するから、デカルトからカントだね。


〚信託の歴史〛
1900年(明治33年) 日本興業銀行法制定
          (「信託」の文言が初登場)
1904年(明治37年) 担保附社債信託法
          (日露戦争後に外貨をロンドン市場で獲得;平沼騏一郎
1912年(大正01年) 信託法・信託業法立法作業開始
          (信託会社の取り締まり強化要請、金融分業主義の確立)
1918年(大正07年) 司法省信託法の立案担当
          (富裕層の財産隠匿懸念、信託財産の受益者による費消対策)
1921年(大正10年) 信託法綱領・信託業法綱領承認
1922年(大正11年) 信託法・信託業法成立。相続税法改正
1923年(大正12年) 信託法・信託業法施行
          (信託会社の多くが廃業に追い込まれる)
1943年(昭和18年) 普通銀 行等ノ貯蓄銀行業務又ハ信託業務ノ兼営等ニ関スル法律   
          (信託兼営法。銀行による信託会社の吸収合併が進む)
1946年(昭和21年) 金融機関再建整備法制定
          (経営困難な信託会社が銀行へ転換。信託兼営法で信託銀行化)
1952年(昭和27年) 貸付信託法が制定
          (貸付信託が信託銀行の主力商品となる。信託銀行の長期金融)

 

臨時財政調査会は、大正十一年に特別委員会の税制改正案を討議したが、財産税の創設に慎重論が多く採決には至らなかった。なお、大正十一年の改正は信託法の成立にともない、信託財産への相続税の課税を定めたものである(史料51)。

解題|【第七巻】|租税史料叢書|税務大学校|国税庁

 

平沼の財閥嫌い、左翼等思想犯嫌い、警察、検察権力の強化は、ここら辺にも理由がありそうである。

 

平沼騏一郎は、近世思想家とマルクス主義者の双方を相手にして、司法から近代的経済観を基礎づけ、田中耕太郎(手形法)にバトンタッチしたのだ。

それは、韓国銀行から台湾銀行への過渡期にあって、やがて、満州中央銀行朝鮮銀行へ受け継がれてゆく過程にあって、国際法では、一木の弟子である美濃部達吉と立作太郎の論争をはじめととしてドイツ留学派によるケルゼン学説が席巻する時期でもあって、国家的なムーブメントであったのだ。