『万葉集』は、「やまと歌」によって七、八世紀の天皇家の〈歴史〉を記すという、中国の漢詩文集にも先例のない編集方法を採っています。特に『万葉集』二十巻の中核となる巻一・巻二では、その〈歴史〉を記すために、歌が注意深く取捨選択され、実に巧みに配列されています。高度な編集の力が感じられます。
世の中 は 夢か うつつか うつつとも 夢とも 知らず ありてなければ
小川 靖彦. 万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史 (角川選書)
(Kindle の位置No.686-688). 角川学芸出版. Kindle 版.
へー。勉強になる。
「えゐつ(え居つ)」。「え」は驚きの発声。この場合は発見の、存在を受けたことの、衝撃感を表現します。
そうか。「5(いつ)」を「い・to・う」から「う・と・い」もあり得たかもしれないと考えたが、「空(うつ)」になってたのか。それはまずい。
『枕草子』が当時の政治思想書なのはもはや明らかといってよく、そのロジックは〈は〉を基礎に据えた、当時仏教に押されていた中原思想(太陽信仰)の再興だろう。
古今和歌集と比べると明瞭だが、四季と日周の循環を確定的に組み合わせたのが画期だろうか。古今和歌種は、最初に「雪」が出て来る。
一方清少納言に夢うつつなどという生易しい感慨はない。夢は夢。現は現である。
此に由て発慍まして乃ち天石窟に入りまして磐戸を閉して幽居〈こもりま〉しぬ、故れ六合の内常闇にして昼夜の相代るわきも知らず、時に八十万の神
『日本書記神代紀』
意欲作だったのだろうが、どうにも残念な印象を受ける。
『枕草子は』第一段がとりわけ有名だが、第一段だけが有名な理由がわかる。
部分的にしか残っていないのだろうか。知らない。
ただ第一段の世界観はそれなりに完成して見えるのは、古今和歌集の世界観との比較においてより「復古」的性格が明瞭だからであり、ただ、それでは時代の要請に適わなかったような印象を受ける。
日本のアリストテレスは厩戸王(聖徳太子)で、独特な三段論法を発明した(もとになった思想書が何かインドにありそうか気がするが)。
そう考えると、
【聖徳太子の三段論法】
第一段 ¬(天→日|→) ;義の理(ことわり:白す)の否定の否定
第二段 (東ー西|ー)∧(¬子) ;天子の否定→子の否定(子と男の否定)
第二段' 和(倭)皇ー皇帝 ;第二段を肯定的評価
第三段 天皇(女王)ー皇帝(男王) ;子(男)を否定し、「天皇」を白す
などは(近代国家じゃあるまいに;内陸部同士の争いなら「在りうる」が海を隔てた場合、当時の技術力では、まったく考える値はないと思う。ましてや三国の中でも「高句麗の背後」などは)ほとんど意味不明である。むしろ、
における、直系家族の社会関係観と外婚制家族の社会社会観のすり合わせが行われ、
「掠取されたことにした」という事も推測される
という「外交技術」は朝鮮出兵における戦後処理にも見られ、納得しやすい説明である。こういったそれぞれの「統治問題」をずらして解決する仕方である。
それが文言にも表れていると考えると自然で、実質の弊害はない以上(互いに、攻められることを心配する必要が、そもそもない。日本が隋をおそれる必要がある、と言うとすれば、基地外沙汰である。どうやって攻めてくるのか?、元寇以上に馬鹿げている。唯一の問題は、統治であって、統治には「文物」と「交易」が必要なのである)、意味論上「平行」であればよい。平行とは、2点を通る直線が1点に交わらないことで在り、意味の中心を1つに持つのではなく、2つもつことであるから、それでよいのである。すなわち、「天子」は隋に譲って、隋の意味論では、それは皇帝であるが、日本の意味論で「天皇」こそ「皇帝」と理解して差し支えない。ここで忘れられているのは、「天皇」は天皇だけではなく、「天皇」「人皇」「地皇」といた中での、権威を保っている。「皇帝」が(天子と無関係に考えるならば)「王の中の帝」であるならば、「人皇の中の帝」でもよ。そう理解する必要まではないが、肝心なことは、意味を1つに統一する必要がないことである。またそれ以上に大切なことは、そもそも隋を求めても恐れる必要がないことである。
中国が無双だったというのは、かなり割り引いて考えなければならない。
そもそも攻められなければ負けないのだ。そして、日本列島は、その「攻められる心配」がそもそもないのだ。
これにならって、清少納言の三段論法を探ってみようかと思ったが、やめておいた。
第一格では AAA, (AAI,) EAE, (EAO,) AII, EIO
第二格では EAE, (EAO,) AEE, (AEO,) EIO, AOO
第三格では AAI, EAO, IAI, AII, OAO, EIO
第四格では AAI, AEE, (AEO,) IAI, EAO, EIO
月の数え方にしても、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月、と二月六月十月と四月ごとに区切って何が意味ありげだが、よくわからなかった。
6月60進法(☟検討)?
これで、ひとく(4+3+2+=9;一句、一区)だったろうか?
これに対して紫式部は、
人の隠し据ゑたるにやあらん
と『源氏物語』を〆る。「隠」(くぐむ)の対義語が「反」(そる)である。
深読みすれば、「天岩戸」の否定である。
もしそうなら、人倫たる仏教の本願がある。
薫のよい匂いも、釈迦にちなんでのことだろう。
『古事記』によると、須佐之男命は、イザナギが黄泉の国で朽ち果てたイザナミを見た穢れを祓うために、鼻を洗って生まれた神様なのです。
ちなみに、清少納言は、
夜をこめて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
逢坂は ひと越えやすき関なれば 鶏鳴かぬにもあけてまつとか
和歌嫌いの藤原行成と清少納言が歌を詠み合う時 | 歴史上の人物.com
小倉百人一首・清少納言 - 学ぶ・教える.COM
とやりとりをして、行成の言っていることが薫と同じなので、思想は移り変わっても男は女に狂っていると感慨深い。
男の女狂いの迷いのなさはいったいどうしたことだろう。
☞検討
なんだろう、清少納言のこの中途半端な感じは。
なにか資料が足りない。
懐風藻|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典・全文全訳古語辞典|ジャパンナレッジ
条里制では 1 町 = 60 歩 = 360 尺で、1 歩 = 6 尺であった。
条里による土地表記の初見が奈良時代中期の天平15年(743年)であり、約50年のずれがあって直接の関連はないと見なされている。結果として、条里制という概念そのものも見直しが行われている。