話者を信じる者は救われる。信念と話型

 

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どうもこれは推移律と同意律に関係しているのではないか。
つまり、規約主義とは、象徴において互いに異なるランダムな要素があったときに、要素間の関係がその表現を内部で規約できるならば、その「規約」は外部性を持つか、ということなのか。

👇体重100kgのヒトを滑車で引っ張って体重50kgのヒトが持ち上げることができるか?

そこから
・体重50kgのヒトを滑車で引っ張って体重50kgのヒトが持ち上げることができるか?
・自分を滑車で引っ張って持ち上げることができるか?
・滑車を用いずに引っ張って持ち上げることができるか?

この場合、ミュンヒハウゼンの「ひげ」は滑車につられる「ひも」と同等である。したがって、「ひげを引っ張る」とは「この場合において、滑車を着けずにひもを引っ張る」ことと同等である。すなわち、ただの身体運動である。

 P→Q,Q ⊦ P

これはいわゆる「後件肯定」と呼ばれる論証形式だが、Pに或る身体運動をQに或る物理運動を入れると、要素のほかに表現を持つことがわかる。

   もし身体が引き上げられるならば、髭が引っ張られる
   髭が引っ張られる(或る身体運動)
  ∴ 身体が引き上げられる(或る物理運動)

前提がともに真となる可能的状況が二種類、すなわち第一行と第三行によって表されている二種類が存在することを表は示している.
(中略)
例えば、"P"を"鯨は魚類である"として,"Q"を"鯨は海中に住む"として解釈すれば次の論証が得られる.

P Q P Q Q P
T T   T   T   T
T F   F   F   T
F T   T   T   F
F F   T   F   F

    
       もし鯨が魚類ならば,鯨は海中に住む.
  鯨は海中に住む.
 ∴ 鯨は魚類である.

 

 

これは前提がともに真で帰結が偽であるような,この形式の実例である(鯨は哺乳類っであっても魚類ではない).論証形式はたとえ一つでもそのような実例をもてば非妥当であるので,この形式は非妥当である.

 (👇P128 第4章 真理値表と反証図)

どうにも自信がない。

すべての論理演算子のなかで,"→"は、対応する日常語にその意味が最も似つかないものである.日常語の条件法の意味は,今もって議論の対象となっている.
(中略)
我々の記号"→"によって表現される条件法は,実質条件法と呼ばれる."P→Q"によって主張されていることは,正確には次の主張であるー"PであってQでない,ということはない".
(中略)
この言明は"¬(P∧¬Q)"という形式をもっており,これは"P→Q"と同じ意味なので,この言明は後者と全く同じ状況下で真となる.

(同P114 第4章 真理値表と反証図)

どうもおかしい。

   もし身体が引き上げられるならば、髭が引っ張られる

   身体が引き上げられる時はいつでも髭が引っ張られる

にしても

   身体が引き上げられる時で髭が引っ張られないときはない

にしても、しっくりこない。PQを入れ替えても同じだ。
つまり、そういうハナシではない。
身体の一部を引っ張るときで、かつ、相当引っ張るときに、身体が引き上げられるのであって、(髭なかろうと)身体の一部を引っ張ることと、身体が引き上げられることに直ちに必然性はないからだ。そして「相当引っ張る」には「身体が身体を引き上げる」か「髭を引っ張る腕を引っ張っる」かそれを諦めて「そんなものだと信じる」かしかない。これがミュンヒハウゼンのトリレンマらしい。
かかるトリレンマを避けて

   或る身体運動があるならば或る物理運動がある

ことの信念を言うとどうだろう。これは当たり前でいつでも正しい。
だから次のことである。

   引っ張れば、身体が引き上げられる(信念)
   もし髭が引っ張れば、身体が引き上げられる(錯誤)

錯誤から信念も導いても(またそれが正しかったとしても)知識とは言えない。
思うに、ミュンヒハウゼンの「ほら」はデカルトのパロディーだったのだ。

   飛んでいる矢は止まっている
   止まっている矢は飛んでいる

そうしてこれは信念の問題だったのだ。
ややこしい論理のハナシはいったん棚に上げよう(俺が困る)。 
規約主義批判に根差して主張するのであるから、ここで「信念」「事実」は物語上決定される。

(1) ミュンヒハウゼンの知識
А.「底なし沼」には「(そのままでは)助からない」という信念が事実によって導かれて知識が成立する。
B.このとき、「引っ張れば助かる」という信念は事実に基づく。

(2)話者の知識
A.「じょうろ」には「(そのままでは)助からない」という信念が事実によって導かれて知識が成立する。
B.このとき、「(今)見つかれば助かる」という信念は事実に基づく。
そのまま潜んでいればそのうちに見つけられて、そうしてからでは逃げられないからである。

(3)マクレガーさんの知識、ピーターの知識
A.「倉庫の中の物に潜む」には「(そのままでは)助からない」という信念が事実によって導かれて知識が成立する。
B.このとき、「じょうろは助かる」という信念は事実に基づく。


(1)(3)は、本来助からないところ、そう信じるがことで意図せぬ経緯で助かっている。(1)の「引っ張れば助かる」との信念は、引っ張る箇所が髭という間違った知識であるが助かっている。(3)の「じょうろは助かる」との信念は、隠れおおせたから助かったのではなく、水に漬かったため、逃げ損じることがなかったという間違った知識であるが助かった。
ミュンヒハウゼンの場合は、これが彼の物語る内容であって、すべての知識が彼の信念に過ぎないかもしれないところを逆手にとっていたのであるが、『ピーターラビットのおはなし』の話者は、どこのヒトだか明示していないが、物語中のピーターの母親に親和的なところから想像が許されるなら、どこかの「母親」であるかもしれない。すくなくも物語上の「正しい」知識を持つ者だ。 

He brought me up also out of a horrible pit, out of the miry clay. He set my feet on a rock, and gave me a firm place to stand.

聖書で英語19

これは聖書の詩編(第40編2節)の英訳である。要は救い主が「沼」から引き上げて、歩かせてくれた(ありがたや)ということらしい。「沼」とかっこを付けたが、英語では、miry cray(どろどろのー粘土)がhorrible pit(恐怖のー穴)となっている。
汚泥もなかなか大変で、こんなところで死んだら、魚に生まれ変わるな(アリストテレス)。
 「底なし」であることの表現。the abyss

or, 'Who will descend into the abyss?' {Deuteronomy 30:13} (that is, to bring Christ up from the dead.)"

聖書で英語45

that if you will confess with your mouth that Jesus is Lord, and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved. 
同上

For with the heart, one believes unto righteousness; and with the mouth confession is made unto salvation.
同上

聖書の『ローマ人への手紙』10.7,10.9,10.10の英訳である。
ミュンヒハウゼンはひげが救い、ピーターはくしゃみが救う。
believes with the mouth のニアミス感がヒドイ。超自然的という意味ではまさしくラッキーである。確かに「引き」が強い👇

note.com

 

ピーターラビット訓話的な性格を持った「母親譚」ではないだろうか。
ミュンヒハウゼンの物語は「信じる者は救われる」とき信じる対象が自己であるのに対し、『ピーターラビットのお話』では母である。
マリア崇拝の話型といったものがあったのだろうか?

フェミニズムにおいては、女性の至高性の表現として肯定的に見られている

マリア崇拝 - Wikipedia

fortheperson.jp

【備考】

そもそも詩文の数え方がわからなかった。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku1962/1986/25/1986_25_26/_pdf/-char/en


 👇今読んでも面白そうである。