どれだけ創造的であるとしても、ナチスの虐殺の犠牲者をあざける権利は誰にもありません
その時のなまなましい体験を速記の記号でひそかに小さな紙片に書き残し,解放後これらを本書のような形にまとめあげた。
この場合「言葉」は表象で、ジェスチャーであれ、造作であれ、同時に扱えるけれど、その言葉が意味を持っていく過程が示されて、自己の責任として内面化されてゆくならどうだっただろう。
『ジョジョ・ラビット』が許容されるのは、監督自身がユダヤ人であるためではなく(つまり、「(一種の)自己卑下だから」ということにしてしまって、その自己に限っては許されるのではなく)、そういった経緯をたどるからだろう。
その紙にフランクルの速記が記載されていたら。
責任の所在あることが明示される。
ジェスチャーも形紙も外部表現としては一種の「言葉」であるけれども、借り物の「言葉」であるがゆえに刺激だけがあって意味がなく、使用感だけあって責任がない。
その言葉の先にあるのが、意味が責任と結びついて、言葉が主体のものであるとの信念だ。
しかし、その差別は日常に潜む。コミュニティーを解体することは不可能だからだ。
コミュニティーと均衡することが、別の言葉を持っている社会の責任である故である。
日本は👇のようなエリートを生み出してきたのだろう。
文脈なんてものは主体の操作に係る。ここで言われているのは、主体を形成するコミュニティーを超えた価値だ。すなわち、どのような人間もそのようなコミュニティーの痕跡を抱えて生きているわけで、そのことに自覚的になれるかが問われている。