webマガジン「和樂」掲載の大山格先生ご執筆記事にて、拙著『児玉源太郎』(作品社)および『日露戦争第三軍関係史料集』をご紹介戴くと共に、「近年、長南政義氏の一連の著作によって、日露戦争に関わる定説は塗り替えられつつあります」として、拙著の新説をご紹介戴きました。ありがとうございます https://t.co/Pa5xAgFWeh
— 長南政義(戦史学者) 新刊『児玉源太郎』(作品社) (@bu_bu_bu__) September 17, 2021
大山さんの記事を読んだ。面白かった。
けれど、やはり鼻につく。やっぱり「東京史観」。それは実は何かがわかり始めている。
「児玉源太郎は英雄ではない」
と言ったところでやはり英雄視されている。日本には「腹蔵なく話す」文化があるからだ。「英雄色を好む」とは別に女のことだけを指す必要はない。
本当の意味で、
「児玉源太郎は英雄ではない」「金子堅太郎は英雄ではない」
そして
「東京は英雄都市ではない」
と謂えた時、すなわち、児玉は陸軍の人事の系譜のレギュラーな一人であって、山縣と宇垣を繋いだだけでそれ以上の仕事をしていない(したがって、アジア・太平洋戦争時に生きていても歴史は変わらない)、金子は当時先進国で盛んに行われていたソフトパワーによる系列化の一環でアメリカの世界人脈の一人に過ぎない(したがって、その裏にアメリカの世界戦略がある)、東京市民は中国大返しを可能にした沿線農民の感情と大して違いはない(したがって、デモクラシーとは程遠い俗情のハナシであり、内務省の進めた「日本」の民主主義では、別の動きが始まることとなったー日露戦争でもっとも大きな「戦災」を出した地方での反応は東京といっしょではない)。
つまり、人を超える何かに回収する作業が完了してはじめて、長南先生の事業もまた完成するはずである。