堀江が尾道でトラブったのがなんか象徴的だなぁ。
本田由紀にまったく同意できないけれど、堀江を「他動」としてみると、ハイパー・メリトクラシー(超業績主義、というよりむしろ、超客観主義。つまり、本田はご多聞員漏れず、実は、ロマン・オカルト主義。)なんだけれど、エスノメソドロジーを支えるリテラシーの問題で、彼の資質から言えばおそらく、ハイパー・リテラシーになっているんだ。

要は、普通の、かつ、田舎の人間にとって、「言語過剰」なんだ。
普通の人間、もしくは、田舎の人間には、そんなにたくさん喋られないんだ。
もちろん田舎の人間も頻繁に会話やおしゃべりをする。
それはすり合わせであって、これこそ、本田の言うハイパー・メリトクラシーで、ただ、それが本田の場合、問題意識としては、資本主義に伴うサービスの問題に過ぎないんだ。だから、地方に気づきにくい。
地方の人間からすれば、東京は「東京」という一地方に過ぎないから、或る意味で自分たちとそん色がない。もちろん、洗練されているという意味で、明確な優劣はあるけれど、上下や、別のものでない。
つまり、「地方語」に「消費社会」が載っている。
そのリスク負担=コスト高に社会は苦しんでいる。
それが教育の問題としてようやく取り上げられるようになったのが、今般の学習指導要領だ。

「古典は役に立つか」「文芸は役に立つか」なんてそんなちょろいハナシじゃない。
社会が回るかどうかだ。

戦後初めてマスマーケットの対象となった70年代以降の生まれの者たちが、ヒエラルキーの上位に食い込むようになって、はじめてそういったことに向き合いだしたんだ。

今の若い人たちを「デジタルネイティブ」と呼ぶが、この者たちは、「消費者ネイティブ」なんだろうと思う。
反対に謂うと、それまで「そうじゃなかった」ということ。
直近では、ようやくマルクス主義に依るオカルティズムが終焉に向かっていて、マルクス主義リテラシーも支配していたから、それから解放され始めているってこともあるだろうと思う。
反対の政治的立場はどうなんだということについては、戦後社会を席巻していたのがマルクス主義というしかない。
そこに「民主主義」「民族主義」や文芸が連なっていて、その系列に「地方」が位置付けられていた側面がある。マルクス主義によって「地方」が生まれるわけじゃなく、「中央」の理解のもと系列化されてきた。
そんなことが、国語や歴史に、端的に現れる。
特に歴史に「違和感が拭えない」ことが多すぎる。