シーケンスがわからなかった。

そうか。

なんで「以前はしてもらえた」というクレームがつくのかよくわかった。

シーケンスが直観的にわからずに、訓練で「慣れる」ためだったんだ。

これは、二値評価(してくれる・T/してくれない・F)の応答のゲーム(Fの場合やり直し)だから、「慣れる」=「してくれた」の繰り返しのゲームになっている。

つまり、シーケンスsequenceはまさにシークseekの繰り返しゲームだったんだ。

sek 「先(saki)」を求める: 日本語と英語をつなぐ
322 sequ, secu, sue「続く、ついてゆく」(L.sequor) - 語源の広場

でも、同一区域ではないと言え、同一市内のイエローハットにできてニトリにできないのは、高級デパートの高島屋と比べるわけではないのだから、店員の資質に差があるとは思えず、単純に、マネージメントの問題だと思うぞ。

具体的には、seekではなくcommandにしてしまうこと。つまり、述語不足であって、マニュアルがないんじゃないかな。

繰り返すけれど、イエローハットはできているんだよ。
ニトリは。。。

そういうことじゃないと思うぞ。
単純に、「レジ」は「レジ」、「サービスカウンター」は「サービスカウンター」、「」は「」に割り切った方がいいんじゃない。堂々巡りでなければ「たわいまわし」にはならないから。

「成約」→「清算」→「引き渡し」のシーケンスには、少なくとも3つの、「お客」の述語が要るよね。それは「契約行為」に付随する「合同行為」(すり合わせ)のことであるから、契約当事者のうちの一方の「店」の述語が、他方の「お客」の述語を修飾してないと、エラーが出るんじゃないかね。

説明がね。総じて尻切れ蜻蛉になっていると思うなぁ。

それを「クレーム処理」するのは筋が違うんじゃないかね。

結局、客にリスクオンしているから「なじみ」の客しか粛然と行動できないんじゃないかね。

すごく単純に、シーケンスを明確にして、流れを良くした方が合理的に思える。
客に「すり合わせ」のリスクオンを過度にしていることが(客にはもちろん客の責任がある。これは適度の問題)クレームの元じゃないかね。
それは結局、リテラシーの問題。
言葉が不足している。
堀江の尾道のラーメン屋の騒動が典型的なんだけれど、非人格化できているかどうかの問題に行き着く。「都会化」=「背景の多様化」=「ペルソナ化」=「非人格化」=「ルール化」=「リテラシー化」なんだろうと思う。
どれだけ開発が進んで、キレイな大型モールを整備して、店員も地元雇用で「人柄十分」でも、「なんか違うな」となるのは、文化が田舎だからで、「人格的対応」でリスクオンしているからコストも大きくなるんじゃないかね。
都会化するなら、必然的に、「リテラシー対応」になると思う。


国語に文芸が居るかということは、こういう問題だね。
大正時代の鈴木三重吉の問題意識は正しかった。
「中央語」「地方語」は、今でも在る。
すごく親切に対応してくれてありがたいのだけれど、言葉(述語)が足りない。
それはやがて「以前はしてくれた」の言葉をプルアウトする(引き出す)しかないゲームとなっている。

「地方」でこそ、「アサーション」であるとか、「アクティブ・ラーニング」が求められているんだね。このとき、その「地方」は「田舎」とニュアンス(含意)が違うんだ。鈴木三重吉で言えば、美しい方言で彩られる「田舎」ではなく、「中央」に対置する「地方」なんだ。

ここで説明される「自立」「協同」「基礎的リテラシー」は契約そのもので、それが学習指導要領が求める、これから合理的個人像なんだ。
それは「都市的個人」のことだ。
鈴木三重吉が頓挫した、(漱石たち維新の志士たちによる、暑苦しい)「近代化」

から(冷たい)「モダニズム化」への移行で、頓挫したまま、大正生命主義によって、置き去りにされてきたことだ。その流れの中で、自然主義は、暑苦しい変態文学になった。
戦後の教育改革ですら、科学的判断をする合理的個人が、再び近代的主体に帰着した。

単に、(かつて思われていたような)標準語/方言の問題じゃない。「中央語」/「地方語」の問題なのだ。

「チーム医療」が重要な場面において医療者間の適切なコミュニケーションを促進したり、医療者と患者の関係を構築する場面でも活用されます。

アサーションとは?効果とメリット・職場でのトレーニング・研修方法 – あしたの人事オンライン

地域性と文学 : 鈴木三重吉「千鳥」「山彦」、「小鳥の巣」を中心に - 広島大学 学術情報リポジトリ

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だから、田舎の商店街がSDGsと云うのだけれど、少なくとも「国」はこのレベルで考えているよって言えると思う。
すなわち、SDGs教育とアクティブ・ラーニングはリテラシーの問題を共有しており、それは「中央語」の求める非人格化の問題を胚胎しているということ。

note.com

「まだこのレベル」なんだってこと。
どういうことか。
看護の世界では、

でしょって。何が違うか。
リスク負担を、システムにオンするか、主体にオンするかの違い。
いまだに、「国語」では、後者ということ。

システムにオンすると、形式的になるから、或る程度個別の齟齬を許容することになる。〈判断〉を文脈から排除すること。

それがあまりに恣意的ならば、分析をどこかで入れるしかない。
大事なのは、それがコストとして認識されること。

この人たちが〈主体〉からどうしても逃れられないのは、認識レベルで考えているからだと思う。コストに転嫁していないんじゃないかな。

「都度、掃く」コストを、分析にしたがって、例えば「都度、確認する」のコストに添加するであるとか。「無駄だから、しなくてよい」は主体的判断、、、、、なんだろうと思う。
そう言っているうちは、変わらないだろうね。
みんな、怒っていいるでしょう?

 手前、何様だ

ってことかな。なぜなら、利益の案分はきわめて政治的な行為だから
すなわち、貴方は自分がエリートだと思っているだけなの。

それが悪いかどうかは知らないが、説得力がないんだろうね。
いや、知らんよ。数多くの反対意見をもらっているのでしょう?