九鬼周三と三島由紀夫

 

 

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九鬼の言ったことは、ただの出鱈目だろうと思う。
コト・バ(言葉)がなんじゃらなんて、歴史上に証拠が挙がって云々するしかない※。心理学でも実証しなければならない。それをさもありげに云々するのは、ただの馬鹿である。こういった認識は強く持つべきだと思うので、はっきり「馬鹿」というべきだろうと思う。「出鱈目」程度だと、何かしら意義を見出してしまうので。悪口は苦手なんだけれど(精神的負荷があって、しんどいけれど)。

※関心が高い分野であるが、古代の表音記号を抜きにして、そもそも理解できる代物ではない。想像だけなら、「コトバ」はもともと「コト」であるから、「コロ」との比較をしたいところである。ネットでググる程度の知識なら、「コト」は内心の指示対象のことであるらしい。だから、当初は、内心と具体的な存在の結びつきの表象である。そうすると、モノとの違いを論じる必要が出てくる。そうする、ナ(乃至ナカ)との違いを論じる必要が出てきて、ハシ或いは(コロとも関係して)ソラとの違いも論じる必要が出てくて、アナタとの違いも論じる必要が出てくる。すなわち、{K}系、{S}系、{М}系、{T}系、{N}系の音の順序的組み合わせの延長に、文法化を見据える必要も出て来るが、これは実証的なハナシにしかならない。
九鬼の話は、徹頭徹尾、体の良いただの印象論である。だから、極めて保守的なのであるが(保守的なのが直ちに悪いわけではないが)、言い訳にしかならないのであった。
一方、ヴィトゲンシュタイン言語ゲームはこの意味で面白い。どうしたところで、最初は、ゲーム的なすり合わせが必要だろうからだ。ただし、ヴィトゲンシュタインも詩であるから、歴史的に実証してゆかなければ、仕方がない。そういった営為による学術的な成果を持つしかないのである。「哲学」と嘯いて飛躍することは許されない。

とおうのは、九鬼にしろ、西田幾多郎にしろ、社会の変遷としてその意義を見出せるに過ぎないからだ。それ以上のことは学術的に値しないだろうと思う。ただの、世間体の言い換えに過ぎない。だから、どこまでも、社会の変数である。ならば、社会の方を学術の対象とするほかない。興味を持つことは無駄でないが、その意味で意義深い程度である。評価され過ぎである。

西欧的に「真っ当」なのは、穂積・上杉の方であって、だから、日本での拒絶反応が酷い。それはそれで「当たり前」であるが、だからと言って、九鬼や西田が「すごい」というのは、奇妙奇天烈な話である。

「実存」(との言葉を生んだの)だか知らないが、こんな蠱惑的な理解は、不必要である。

 

科学的実在論 - Wikipedia

カンタン・メイヤスーは相関主義を批判する際に、カント哲学の中心には2つの原理があると主張している。1つ目は、相関の原理(Principle of Correlation)であり、我々は思考と存在の相関物しか知ることができない、つまり相関物の外部は不可知であるとする原理である。2つ目は、事実性の原理(Principle of Factiality)であり、物事は実際にそうなっているのとは異なった仕方でもありえたとする原理である。この原理は、物自体は不可知ではあるが想像可能であるという議論を擁護する際にカントが用いたものである。我々は実在を決して知ることはできないとしても、その実在が根本的に異なったものであると想像することはできる。メイヤスーによれば、これらの原理をどちらも擁護することで「弱い」相関主義が導かれる(例:カント、フッサール)。一方で、物自体を拒絶することにより、「強い」相関主義が得られる(例:ウィトゲンシュタインハイデガー)。この「強い」相関主義にとって、思考と存在の相関物の外部に何かを想定することは無意味とされており、したがって事実性の原理は破棄され、強化された相関の原理に置き換えられる。

思弁的実在論 - Wikipedia

 

 

千葉さんは、ゲイとしての自然な文体を織りなすことができたことが十分評価されるべきじゃないかと思った。

 

👇の本かどうか忘れたけれど、

以前読んだ、こういったインタビューをもとにして一冊にまとめたものの中に近い表現があったような気もしたが、それって「あるある」な事実なだけかもしれないしね。

ゲイであることに、「被社会性」とでも呼べばよいだろうか、社会との関係で悩むことはあっても、三島と違って、存在性で悩んでいる風には見えず、一般的に語られる異性愛者の言葉とフラットな(三島のような迂回的な表現=説明を必要しない、両者を並べても引っかかりのない※)表現であると思った。三島を読んでいると、これって、難しいのではないかと思った。

flat | ロングマン現代英英辞典でのflatの意味 | LDOCE

彼の哲学が哲学に帰着すると、事実認識として物足りなさを感じるが、表現構造に帰着しているとすれば、成功したんじゃないかと思う。


ということを、前回も本当は言いたかったんだね。
別に腐して仕舞いにしたかったわけじゃない。言い訳じみていて申し訳ないけれど。