要は、社会における「私」なんて、いくつもの壁に囲まれて生きているだけに過ぎないんだよねってこと。

もちろん、学校や家庭で「ねじを巻く」のだけれど、それが「すべて」と思うほどナイーブでいいかな?ってこと。そら、「心配な子」だよね。

 

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受験なんかだと、いきなり「佐藤ママ」なんて荒唐無稽。
だからと言って、「下剋上しないママ」でいいのかはその子次第であれ、両ママの間には、中間的な(この場合)「パパ」が居るってこと。

そういう見方って、あんまりされないんだよね。
「日大」を目指しなさい。そこがボリュームゾーンでしょって。
そういう「溜め」が必要と思えるかなんだな。
内容の詳細に違いが出ても、取り組むべき「枠組み」は同じなんだから。
「初動」或いは「(初期)動機」の段階で、それらが違うと思うのが、間違いだよ(自分の判断を信じる過ち)。「動機」と「動機付け」は違う。「夢」を「語る」のはよいけれど、「語り」は所詮「騙り」だから。自分をときに「騙す」のも「怪我の功名」があるかもしれないよってこと。語りを生み出すのではなく、行動を付与する人格的な「器」にならないと。そこ(抽象世界)には(具体名である)「日大」も「東大」もない。そういうこと。
それらは経験で身に付けられることで在り、経験が利益をもたらすことだけれど、そこい至るには、実は、見えない支援、、、、、、が要る。
それを自覚できるかかどうかじゃないかね。

だって、親だって知らないことがある。だけれども、そのときに、「子どもだって知らない」んだから、それをバーターで考えるのが、相当無理があるよねってこと(「お父さん知らないから、お前が考えろ」というのは、相当無理がある、ということ。「子どもが知らない」とき「お父さんも知らない」なら、「お父さんも考えないとダメだね」になるのが普通に感じられるなぁ)。
すなわち、子どもが子どもであるって、すごく大事なんだけれど、意外に、〈私〉を軸に「大人扱い」するもんじゃない?ってこと。

ローランドも

一人称から二人称へ進化しました。