結局、昼寝してしまった。
かなり暑い日になると天気予報で知らせていたが、クーラーは28度にして、氷枕をしていると
は
の文庫化であることに注意が必要であって、金谷が言いたいのは、
言語学的には、普遍文法仮説に批判的な認知言語学を支持する立場である。言語獲得についての彼の主張では、普遍文法仮説で仮定される生得的な「言語の機構」(faculty of language)を認めず、発達の初期に個別の語ごとに固定された表現を学習し(たとえば彼の提示した「動詞島仮説」)、そこから徐々に一般化することによって、より抽象的な文法をボトムアップ的に獲得するとしている。
という立場に近くて(だから、実際に、別の著者へ 文を寄稿している。)、要は、旧い対立から言うと、心理主義からの論理主義批判ということだろうと思う。
論理実証主義はすでに相当程度批判されてしまっていて、紹介文にある
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」(川端康成)は英語で「The train came out of the long tunnel into the snow countory」(サイデンステッカー)。世界を表現する際の「視点」 の違い。英語は「神の視点」を得ることによって主語の誕生を準備したが、「虫の視点」を持つ日本語にはそれは必要なかった。
はほとんど「とんでも」と断じて差し支えないのではないだろうか。
川端の『雪国』に関してはかなり技巧的であって、それこそ、文学研究を当然に踏まえるべきでなかったかと思う。
そういう私も読んではいないが、川端を考える際に、横光を無視するのはかなり危険ではないかと思う。すなわち「新感覚派」の映画的なモンタージュ技法であるが、このとき興味深いのは、
を読もうと思っているのだが、何しろ、面倒くさい。そこですでに現代訳されている文章がないか検索したら、見つかった。
この人を論う意図はなくて、物事を習得するときの好く知られたパターンの一つだと思う以外には何も思わないのであるが、簡略化された内容の内に、理解したい内容が含まれていると思う。
安永5年とは西暦1776年らしい。
1494年、『スムマ』と呼ばれる数学書を著した。この書で初めて複式簿記が学術的に説明されたことにより、パチョーリは「簿記会計の父」と呼ばれている。ただし、パチョーリ自身が「複式簿記の祖」でないことはいうまでもなく、これは『スムマ』の中でも述べている。
1494年とは
1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。
こういった年である。
さて、「功過自治録」であるが、原文は驚くほど概念操作が騒々しくて、遂には「八百倍の霊験」を得るに至る方法を提示しているのである。単に日々の行動を改めましょうという道徳訓ではない点が鍵だ。
「八百」という数字があまりに比喩的(=飛躍的)であるにしても、経済的であるのは疑いようがない。そもそも(わざわざ)「大意」を示さなければならないほど、「ピンと来ない」ものなのだろうと思う。
読み慣れていないので、恥ずかしいことに正しく読めないのであるが、「あまり()」
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【みんなの知識 ちょっと便利帳】変体仮名(へんたいがな)・くずし字 - 古文書解読の一助に
博物館で「古文書講座(初級)」を受講したときに、レジュメに仮名一覧もあったんだけれど、もう10年以上も前の話だな。捨てちゃったよ。そんな体たらくだから初級どまりなんだけれど。読めねえな。
「和」(U+548C) | 日本古典籍くずし字データセット
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「所」(U+6240) | 日本古典籍くずし字データセット
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ひょっとして「阿 まる所純善凡得」「阿 ましそ純善凡得」かな?と思う。
これを「所」と読むべきか、「そ」と読むべきか。
「あまし(連用形)+そ(禁止)」だろうか?
あますな(強い禁止)/あましそ(禁止) の違いがあるのだろうか?
そうだとすると、この(元は概念語たる漢字の)概念操作を駆使した文章に於いて、「善」と「純善」は違うのか?―「資産」と「純資産」程度には―と思う。
右の 書物 の 意 を 取 て 真文字 をやハらげ、 仮名 に 著 し。
詞 の 鄙陋 をもつている〇せにす〇〇なかれ。云尓(云爾)
反対に現代の私たちは、単なる差し引きと理解したがる癖があることがうかがい知れるのではないかと思う。