加賀の馬場、越前の馬場をみたので、今日は、九頭竜湖を越えて、美濃の馬場まで足を延ばそうか思ったけれど、ガソリン代も高騰しているし、1月のうちに「小旅行」を2回入れるのは放漫生活かなと思い、図書館にした。夏場のガス代と電気代をどうするか。

 


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井沢は相当気を付けなければならないと思うね。

専門性に関して言えば、それは方法論で会って、原理上当然に排除的なんだけれど、例えば、歴史学と考古学は違うし、他の自然科学的なアプローチによって、歴史学が批判されるのは、一方に於いてまた、当然だよね。

じゃあ、井沢の方法論って何かを考えると、ひとつは「小説」で、あとひとつあげられるとすると、せいぜい「ミルの方法」であって、

ミルの方法 - Wikipedia

現代の水準で語られるべき「学問」としては、相当怪しんじゃないかと勝手に思っているが、どうなのだろう?

専門家は専門家で、僕らのような趣味の人間と違って、「別の人たち」と思うのが節度だよね。「ネタ」として論うことはあっても、「ネタ」は「ネタ」であってね。

楽しみ程度なんだけれど、楽しむにもマナーってあるよなって思う。

生類憐れみの令 - Wikipedia

で言うならば、


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これって「いいな」と思ったのだけれど、井沢の言い方って、ここで批判されている方の「言い方」に近いと思ったね。独特の帰納法を取るがゆえに「後付け」っぽさを感じた。

  1. 仏教の持つ実証性と原理性(現実の説明力)
  2. 仏教の当初から持つ習合性(既存の価値体系との折り合い)

仏教ってすごく「便利」で、聖徳太子から暁烏敏まで、社会事実が先行してあったときに、それを受容する方法として極めて「納得的」なんだよね。

つまり、「まず仏教を通してみる」という態度があり得る。暁烏敏がやったことも、室町から江戸時代に近くて、それこそ本当に  仏教が衰退したときに、ギリシャ哲学にしろあたらしい価値体系について「仏教を通してみる」ことをやったのではないかと思う。

生類憐みの令に関して江戸時代の「仏教を通してみる」とまずは、江戸の語源である「厭離穢土」を提供した浄土教だろうと思う。
浄土教の特徴は、上記2に関して、儒教と習合的であることだと思う。
儒教と習合的」であることが、法制史に鑑みると、おそらく室町時代の「御法」意識の芽生えに接続すると思う。
すなわち、仏教の実証性が道理として「世間の大法」を支持したその反面で、「アナーキー」な世相に対峙して、幕府は、「御法」意識を以て臨むようになった。

このとき、そもそも仏教の殺生の禁止の考え方からすると、そもそも蚊を1匹殺してはならないのであって、それとは別に当時の法から言っても、そもそも犬を殺してはならなかった。

そう考えると、(「参勤交代」ならぬ)「参覲交代」における、事実の先行といっしょで、何を以て「事実」とするかになるけれど、「法律(法的)事実」が先行していただろうというのが、ある。

そして、仏教の持つ、その実証性を支える帰納的融通無碍さが、結果として、上手く効いたかなと思う。

 

さて、

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腹式簿記が、ヨーロッパ人の言うほど、それほど驚天動地の発見なのか、と考えると、或る程度、疑問に感じる。

そもそも、社会経済の成立に於いて、「金銭の出し入れ」という単純な取引があり得るのかに気づく。

「借用書」という書面主義を取るとき、「決済」と通じた「決算」があるはずであるし、また、実際の「金銭の出し入れ」に関して、一度でもアルバイトでレジスターを触ったことがあれば、「ミスゆえに金額が合わないことが頻繁に起こる」ことは実感として「わかる」のであって、そのとき、ごく自然な発想として、それぞれに計算するという工夫は子どもでもやることだろうと思う。つまり、原因と結果を「分ける」なんてことは、むしろ当然に思いつくはずである。

ならば、複式簿記の発達は、

  1. 銭の流通
  2. 識字率の向上
  3. 算術(足し算、引き算)の一般化(技術的な普及)

から考えた方が納得しやすいのではないかと思った。
腹式簿記を発明したのは、イタリア人なのか中国人なのか、或るいは、近江商人の「複式簿記」はどれほどオリジナリティーがあるのかは確かに興味深いけれど、

その萌芽は相当古くから社会に散りばめられていたのではないかと思う。
アリストテレスにしても債務論は(彼の世界観を支える比例原則から言って)一題トピックだったわけであるし(それをライプニッツは継承したと思う。彼は、もともと、一風変わった、数学寄りな法学者だったのだ)。

ヨーロッパ人がヨーロッパ人の事績を誇張するのは、やはり、イスラム社会との距離感ではないかと思う(ちょっと前に起こった、中国の再評価にしても、いや、それ以前に、イスラム社会を無視しているのは、突厥以前からトルコに至る、或いは、ヨーロッパ社会を塗り替えたゲルマン民族の大移動も実はこのせいだったと言われる、騎馬民族の大移動が無視されている。世界的インパクトから見れば、中国の歴史もこの影響下にあったと思う―そう考えると、聖徳太子の「対等外交」が―これ発想自体あまりに近代的※な毒を呑んだものであって「 譫言 うわごと 」に感じられるが、それに目をつむれば—別に不自然でないと感じられる。隋はそもそも東北の騎馬民族を出自に持つからね、当時とっくに境界辺りで「現地(中国)化」していたようだが。仏教という例のものを通して外交が演じられたわけであって)。

※井沢が指摘する専門性ゆえの固執よりも、呉座が指摘するマルクス主義史観、実のところ、オカルトに彩られているが、前期近代的な(近代)国家主義に棹差すことに関する違和感の方が強い。