いろいろと考え込んでしまって気晴らしに計算をしていたら、こんな時間になった。

 

中世から近世に向かう中で、荘園経営を軸として(背景は、小氷河期にあって、銭経済の、交易技術の、土木農業技術の、社会制度の発展であるとか。)、全国で多様な自治が成立して、加賀の場合、越前、能登(および越中。その向こうに越後)に囲まれた後進地域にあって、戦国大名が育たなかっただけではないかと思う。それには蓮如も関係しているけれど、越前には朝倉氏が居たしね。どうなのだろう?九頭竜川手取川(当時は湊川)を比べた場合、加賀の発展の礎として採り上げられるのは、北陸道の方じゃないかな。

氾濫による肥沃な土壌があったとしても、加賀が発展してゆくのは、前田家が治めるようになった後?或いは江戸時代になってからなのかな?と思う。

 


「百姓ノ持チタル国」と最初に言ったのは、実悟。
真宗全書 続編 第18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

小学校より一段下がった所に浄源寺、さらに一段下がった所に浄光寺がある。蓮如とゆかりがある。両寺はもと天台であったが、蓮如が来てから真宗に改宗した。

蓮如上人は寛正年間(1460〜66)に比叡山の荒法師に本願寺が破却されて、近江の堅田から日野に逃れ、この村人の案内で山道を塩津までのぼり、その山中の炭小屋で一泊して、根の平峠から伊勢へと教化に向かわれたとされる。

滋賀県東近江市 甲津畑

真宗全書 続編 第18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

堅田と比良山麓の村々

天台宗の舊地「百姓ノ持地ト成」から「百姓ノ持チタル国ノヤウニナリ行」

功過自知録 | 東京大学学術資産等アーカイブズポータル

「湖賊」から「近江商人」へ

悔返 - Wikipedia
和与 - Wikipedia

第7版(1円)が届いた。実例が予想以上に面白い。

 

浄土真宗を信奉するにしても、他力本願(絶対他力)であるべきか?と考える北陸の人たちは居たらしい。

三業惑乱の背景として、宝暦年間に「無帰命安心」という異安心が北陸中心に広まっており、本山の西本願寺がこれを牽制する必要があったことが挙げられる。無帰命安心は、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏したときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという説であったが、一面には「弥陀の救いをたのむ」という要素が乏しかった。

三業惑乱 - Wikipedia

異安心 - 新纂浄土宗大辞典

異端 - 新纂浄土宗大辞典